本

『ザビエルとその弟子』

ホンとの本

『ザビエルとその弟子』
加賀乙彦
講談社
\1680
2004.7

「夢幻能」とは世阿弥によって創始された能のジャンルの一つであるという。この小説の帯には、「夢幻能の手法を用いて描いた」小説であると宣伝してある。死者と生者とが対話をする、能の世界の幽玄を表す手法なのだそうだ。
 フランシスコ・ザビエル。日本にキリスト教を伝えたとされる。歴史的事項としてはそれで問題はない。古くから来たる中国の「景教」なるものが、日本に何らかの形で伝わったことは確実であるのだが、それは公式便とは言えないのだろう。16世紀、ザビエルによって、カトリックは日本に伝えられた。
 ザビエルは、さらに中国への伝道も望んでいたらしい。だが、それはならなかった。物語は、その部分に焦点を当てながら、ザビエルの弟子たちを描いて展開する。
 そして、アンジロウ(ヤジローとも)という日本人の弟子が、この物語の焦点に置かれる。アンジロウは、日本で人を殺めたために逃亡し、キリスト教に導かれ、やがてザビエルを日本に案内する通訳として働くのである。彼なしには、日本への宣教はなかったとも言われる。
 このアンジロウ、中国で不慮の死に遭う。時に中国への伝道を望みつつ、その直前で死を覚悟しなければならなくなったザビエルは、このアンジロウの亡霊と出会う。本のクライマックスでなされる、この亡霊との会話が、作者自身の叫びとなって、読者の心に響く。
 加賀乙彦氏は、カトリックの作家である。『宣告』で世に死刑制度について知らしめた作家である。すでにカトリックと触れあいつつ、洗礼はためらっていたものを、後年になってついに洗礼を果たし、信徒という立場に立つこととなる。
 亡霊アンジロウは、ザビエルに語る。日本では強引にキリスト教の教義を教え信じさせようと躍起になってはならない。歴史ある仏教の教義を、宣教者自身学び、むしろ座禅などを体験することで、日本人の精神的土壌を理解する必要がある。日本の八百万の神というものに親しむ日本人の心情を十分理解したうえで、日本人の思うところのない唯一神について語り始めなければならない、というのである。
 物語に没頭しているならば、気づかないかもしれないが、このように滔々と自説を語るアンジロウの亡霊は、実は作者そのものの胸の内にあるもやもやを語らされていたのであるに違いない。物語を背景にして、加賀乙彦氏自ら、カトリックの中でどこか主張しきれなかった部分を、亡霊の口を通して語っていることは、おそらく間違いがない。
 だから、これは単なる過去の歴史を語っているというよりも、そうした舞台を背景にして、現代あるいはこれからのキリスト教世界について、そして日本への宣教について、著者の考えをキャラクターに語らせているタイプの、小説なのではないかと思う。
 それは、今の日本に、キリスト教をどう伝え、生かしていくかという、極めて切実な問題なのである。私にも、そしてクリスチャン一人一人に課せられたテーマなのである。




Takapan
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