『ウィトゲンシュタインはこう考えた』
鬼界彰夫
講談社現代新書1675
\940+
2003.7.
幾多の哲学者について分かりやすい解説の新書を作り続ける講談社現代新書は、良書を多く出しているものと好感が持てる。今回のウィトゲンシュタインも、印象に残る良い本となっているものと感じた。
サブタイトルは「哲学的思考の全軌跡」とあり、なかなか壮大なスケールで構えているが、誤解して戴きたくないのは、本書ひとつでウィトゲンシュタインの思想が網羅できるとは期待しないことだ。ここにあるのは、一筋のきっかけである。ただ、彼の場合、いわゆる前期と後期とでは大きく見方が変わっている。若手にして華々しい世界へのデビューを呈した、『論理哲学論考』と、後期の「言語ゲーム」との間の、大きな変化がよく指摘される。
ウィトゲンシュタインの、いまから見れば特異な境遇や性質やヒトラーもいた学校での学生生活、第一次世界大戦への志願兵での経験を経ての『論理哲学論考』を出版すると哲学の問題は解決されたとして思索を離れ、小学校教師となったことなど、人生の動きを見ているだけでもなかなか興味深い。教育への熱意が空回りして遂には辞し、修道院に入ろうとしたり、建築での仕事で精神的に癒されるような体験をしたりもした。
が、本書はそうした人間ドラマを追いかけることはしない。確かに志願兵の時期は、戦場でもメモを続け、その中で重要な考察に至っていることを指摘することは必要であった。だが、言語に向き合うウィトゲンシュタインの思想が、実は人生の問題と重なり合っていることを徹底的に追い続けるあたりは、そこまで単純にしてよいのかとハラハラもするが、読者にはこよなく読みやすい、ありがたい企画であったと感じる。
なお、後にウィトゲンシュタインはそのほぼ唯一の著作とも言える『論考』が認められ、哲学教授に迎えられる。やがて生まれてくる「後期」の思想は、いまでは何冊かの本となって出版されているが、それらはウィトゲンシュタイン本人が出版したものではなく、他の理解者の編集によるものである。
さて、言語により世界が語られること、そして語り得ないものについて言語は語れないという形で閉じられた最初の思想が、ウィトゲンシュタインの中で、待てよ、と問い直されるのは、「生」の問題であった。生きることに意味があるのか。素朴ではあるが、ウィトゲンシュタインはこれを、様々な書物との出会いの中で考え直すようになっていく。そして、トルストイの影響が大きくここで伝わられる。それは、後半生でキリスト教に傾いていくトルストイが読んだ福音書の理解を通じてである。トルストイは、イエスの言葉を「生きる」ということの中に取り上げ、そのような人生の中で、真の生命を見出していったのである。
私は如何にして生きるのか。生きてよいのか。世界の中で「私」とは何か。むしろ「私」が見ており考える故の「世界」というものなのか。本書で盛んに、ウィトゲンシュタインの書き付けたものが短く引用されるが、私はこのような断片をこれまであまり知らなかったので、こうして集められた時に、ウィトゲンシュタインが如何に神と差し向かい、神に祈り、求めていたのかということを初めて知った。そして、幸福に生きることをどんなに彼が願っていたのか、思い知るのだった。
だから、神を信じることを以て、その幸福な生が始まるというような人生観をもっていたことを聞くと、急にウィトゲンシュタインが身近に感じられるようになった。言語についての冷たい思考ばかりで人生を終えた人ではなかったのである。
こうして思索の領域に現れた「私」というもの、これを通じて、本書の後半は延々と語られていく。但し途中から、「文法」のかなり細かな議論に入るので、私も正直全部について行けたわけではない。ただ、どういう道を読者の一人として自分が進んでいるのか、これを見失うことはなかった。その点、著者はくどいくらいに道案内を繰り返し、外れたり遅れたりしないように読者を導いてくれていると思う。
やはり私に印象的だったのは、「痛い」ということを例にとった、後期ウィトゲンシュタインの思想の要になる意味についての解説であった。「私は痛い」と「彼は痛い」とでは、その意味が全く違うというのである。私が痛いことを言うことにおいて、この私のことを理解してもらいたいと訴えているのに対して、彼が痛いことを言うのは、その痛みを完全に知ることはできないのは仕方がないにしても、何らかの形で同情するという様子を示す文となるのだという。つまり、その意味は、何らかの行為に基づき、あるいは行為を目的として、明らかになるものだというわけである。
するとその違いの根拠はどこに狙われるかというと、「私」である。この世界の中で、私にとり唯一例外的な存在としての「私」とは何か。私が用いる言語は、最初に規則があってそれを習い覚えたものでないだろう。ただそうした言語が存在している中で生きることにより、いわば実践的に習得したルールに基づいて成り立っていると言えることになる。しかし自分のルールだけで成り立つ言語の使い方もある一方、人間同士互いに共通の理解によって通用するルールもある。ウィトゲンシュタインが62歳となる頃、前立腺がんで死を迎えるほんの数日前まで闘い抜いた思索の跡を、本書は丁寧にた辿っていく。それは、ウィトゲンシュタインへのリスペクトであると私は感じた。そして、彼が問い続けた「私」というものについての問いは、依然として他のすべての人の「私」の中で、問い直されるべき価値のあるものであるということを、思い知らされるのである。