本

『ウィトゲンシュタイン・文法・神』

ホンとの本

『ウィトゲンシュタイン・文法・神』
アラン・キートリー
星川啓慈訳
法蔵館文庫
\1200+
2022.1.

 法蔵館から出ているというから、一瞬わが目を疑った。浄土真宗の出版の先頭に立つ書店である。およそ仏教とは関係のないものでも、こうして出してくれているのはありがたい。しかも、ウィトゲンシュタインという、基本的に宗教とは無縁のように見られがちな哲学者の思想を扱った書である。それは、本書が、ウィトゲンシュタインの宗教思想を正面から扱っているからであろうと思われる。つまり、宗教一般について然るべき地位を有している書物としては、法蔵館において扱う価値があると見なされたのである。尤も、本書は1989年に単行本としてすでに発行されていたものであり、文庫となって、多くの人の手に取りやす句成ったと言うことは、それだけ広く知られるに値するものであるからなのだろう。
 ウィトゲンシュタインとくれば言語哲学、という看板がもちろん前面に出るにしても、信仰的な発言をしていることは、少しばかり彼について見ていくと明らかである。
 確かに、宗教を言葉で説明しようとすることは、できないことであるに違いない。ウィトゲンシュタインは、ひとの生き方の中に、宗教の意味があると見ていたのであろうか。神があるとかないとか、そうした議論は、議論好きな人が楽しみでするのなら、それはそれでよい。だが、ひとは如何に生きるか、そこに関心をもつならば、そうした議論を戦わせて、勝った負けたなどと考えようとすることに、何の意味があるだろうか。
 なんでも、著者の博士論文を基に展開したものであるというので、形式も理論もしっかりしたものである。註が多いのだと訳者が最初に断っているが、それほど多いという印象はない。
 まずウィトゲンシュタイン本人の言うことに耳を傾けた後に、いわゆるウィトゲンシュタイン学派が捉えた、彼の宗教に対する考えが取り上げられる。様々に理解され解釈されたウィトゲンシュタインの思想は、新たに解釈されていくようでありながら、どうにも当人の思うところとは違うように広まっていくことがある。自然主義や相対主義、あるいは還元主義といった、ありがちな形での理解に難色を示しながらも、ウィトゲンシュタインの宗教に対する考えは、その後の歴史に刻まれた宗教思想とに関わることができるものであり、むしろ私たちはいまなお、その声に耳を傾けながら、宗教について考えていかなければならないということなのだろう。
 宗教学が無意味だなどとは思わない。キリスト教ひとつとっても、聖書に対する無数の研究や論争があり、それらが価値のないものだとは少しも思わない。聖書学の発展は、聖書から何かを得たい、道しるべにしたいという人々にとり、実に助かる道案内となるものである。だが、議論は次第に、議論のための議論になっていきがちである。
 教会でも、愛という言葉は実にたくさん乱れ飛ぶ。キリスト教とくれば愛だ、とまで言うひともいる。そして、聖書にはこのように「愛」が説かれています、と説教し、「愛」とはこのようなものです、と高らかに語る。だが、そう言い放ちながら、世間の人々のほうがよほど愛を知り、愛を行っているようにしか見えないようなことを、教会の人間が言ったり、したりしていることを、幾度も見ていくにつれ、言葉として説明することと、実際にその言葉に生きることとは全く別の事柄なのだという確信を、私はもつに至った。
 もちろん、そこに自分はできているのにとか、自分だけは分かっているのだとか、そんなことを言うつもりもない。どうあっても、自分自身についてはひとは語る言葉をもたないものだ。ただ、それを忘れて議論に熱心になっていても、それは空しいものだと溜息を漏らしてしまうというのが、私の率直な感想なのである。
 いまは「愛」について触れたが、そもそも「神」はあるのか、ないのか、そう語ることそのものはどういう構造になっているのか、そこに意味はあるのか、こうした点への着眼は、カントが神の有無を理論的に認識することはできないというようにもっていったのとはまた違って、私たちがそのように述べるその命題がどうなのか、いうことをまな板の上に載せることになる。
 ことさらに何かをする故に「愛」なのではなく、いざという時にそれがふと現れるものだ、と人々は理解するのではないだろうか。だとすれば、何かの時に、自分が神とどう向き合い、どう神の前に生きるのかということは、平生もう自分の中で決まっているということがあるのかもしれない。言葉にまつわる形で自分の生き方の決意というものを、私たちはやはり覚悟しておく必要があるのではないかと思うものである。




Takapan
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