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『アクティブ・ラーニングとは何か』

ホンとの本

『アクティブ・ラーニングとは何か』
渡部淳
岩波新書1823
\800+
2020.1.

 就学生のいない家庭ではなじみがないかもしれないが、教育制度がいま大きく変わってきている。すでに数年前から、アクティブ・ラーニングと呼ぶものが実施されており、授業のスタイルそのものも大きく変化してきている。生徒同士で話し合わせ、また教え合うなどもし、教師はせいぜい、プロ野球のコーチのような役割くらいしか果たさない、そんな授業が始まっているのだ。
 いったいそれで何が分かるのか、と心配な親御さんもいるだろう。しかし時代は動いていく。そういう方は、こうした本も頼りになるし、何かしらテレビ番組で紹介されていたらご覧になるといい。最初概念だけ聞いても、すぐにはぴんとこないだろうと思われるから。
 私も最初はよく分からないと思った。が、一度現場でやってみると、これは私好みであることもよく分かってきた。能率はよくない。しかし、生徒の活動量が増える。積極的に参加するようになると、生徒が慣れてきさえすれば、有効に活用する場面が拡がることが理解できる。
 本書は、そのような意味で、後発的な本である。すでに現場の教師に役立つような本は大量に出回っている。しかし本書は、そうしたノウハウに関するものではない。一般の方が、アクティブ・ラーニングとは何かを知りたいと思うときに頼りになりうるものであろうと思われる。
 ただ私は、その点では十分知っている部類に入る者なのであるが、本書は最初のところにえらく感動してしまった。これはどんな本なのか予備知識なしに読み始めたものだから、最初は、これはとんでもなく良い本だと躍り上がったくらいである。
 それは、社会のあり方にまで影響を及ぼす、という指摘である。そしてそれは、個々人の能力開発だけでなく、次世代の市民形成にも連動しているのだ、という。もちろん、著者は学習に関してそれを言っている。しかし、この点は本論に入ると、さらに私に迫るものとなっていく。
 一斉授業式の座学に頼ってきた教育スタイルしか、私たちは基本的に知らなかった。これのルーツを辿っていくと、どうやら19世紀にアメリカから伝わったものであるらしい。これは、そのころアメリカを中心にして入ってきたプロテスタント教会の礼拝形式が、いまなお日本の多くの教会の礼拝形式を決定しているのと同様ではないだろうか。
 アジア諸国では依然一斉授業式があるが、今や世界では、この一斉授業式が崩れている。というより、過去のものとなっている。ただ聞くだけでは、疎外されたり興味を失ったりした生徒は授業の外に消えていく。もっと自ら参加するという姿勢が必要である。つまりは生徒各自の意欲や行動を、アクティブにしなければならない。またにここにアクティブ・ラーニングの核心があることになる。
 一定の知識は身につくかもしれない。しかし、予測困難な時代の迫りを感じる中で、それでは立ち行かないことが明白である。学びに向かう態度なくしては、事態に遭遇して対抗することはできない。こうした危機感も伴い、教育が大改革を起こしているのだ。
 このような背景を私は踏まえて実践していたつもりだったが、それは教育の業務の中でのみのものだった。しかしこの19世紀のスタイルがそのまま残っているという指摘ひとつで、見方が変わった。教会もこれと同じなのだ。聖書の知識を得るために信徒は教会に集まっているのだろうか。無教会主義ならそれでもいい。しかし皮肉なことに、無教会の中から活発な活動がなされた現実の歴史もある。しかし肝腎のプロテスタント教会のほうでは、聖書は知識ではないなどと言って無教会を非難したにも拘わらず、無教会以下に知識に偏重しているのではなかろうか。そして礼拝中寝ていても、他のことを考えていてもそれでいいし、ただ仲良しの人に会って礼拝後に生き生きと活動するのが楽しみで教会に集まっているようなことはないだろうか。説教は早く終わらないかなというばかりの退屈なお話でしかなく、説教の内容について話し合うような時もなく、まして牧師に質問したり感想を述べたりするようなこともなく、最悪説教さえなければ教会は楽しい、などと思っている人は皆無でないどころか、本音としてかなりいるのではないかとすら思われるのである。だから、自らアクティブに礼拝に参加することが望まれるのではないか、と私は気づかされたのである。
 つまり、一方的に牧師が説教を語り会衆が座学よろしくじっと座って聞いているというスタイルは、かつての古い、プロテスタント輸入の時期の古典でしかないと捉える必要があると思うのだ。牧師が語りながら信徒に尋ね、話し合わせ、それを返しながら、そこそこ牧師がまとめていく、そんな礼拝説教があるのだなどと言うと、説教学の先生方からは、なにをばかな、けしからん、と一蹴されてしまうことは目に見えている。だが冷静に考えて戴きたい。ほんとうに今のままでしかないのか。弟子たちはイエスに積極的に、つまりアクティブに、質問をしていたではないか。それに応える形でイエスは語っていた。論敵の間でもそうだが、弟子たちの間でもさかんに議論しあったというような記述も少なくない。イエスの方から弟子たちに問いかけ、考えさせ、答えさせてから、イエスが教えを告げるようなシーンは沢山ある。これはまさにアクティブ・ラーニングである。いったい、アクティブ・サービスというものは、ほんとうにけしからんものなのだろうか。積極的に信徒が参加して声を出し合うということは、パウロが指摘した優れた預言の姿に近いのではないだろうか。
 事実、礼拝の後半で、分かり合いの時、一種の教会学校の成人科として開いている教会もある。毎週ではないが、礼拝後にそのような集いをもつ教会もある。そのとき、礼拝説教の感想が各自から出されて、ひとの受け取り方がいろいろあることを知り、刺激を受けるし、学ぶことも出来る。誤解を避けられたり、同じような感じる人がいたということでほっとすることもあるだろう。各自がそれぞれにただ受け止めただけでいるのとは違う良さがたくさんある。さらに、そのためには説教をちゃんと聞いておかなければならないという聞く姿勢にも関係する。アクティブ・サービスという概念は、そんなに理不尽な、奇想天外なアイディアでもないと思うのだが、どうだろうか。
 さて、本書に戻るが、途中からは普通の本になってしまったため、ひたすらアクティブ・ラーニングについての宣伝めいたもの、悪く言えばこの新しい教え方に舞い上がった解説とも受け取られかねないものとなっていった観は否めない。それでも、一般の読者を対象に、アクティブ・ラーニングとは何かを伝えるには十分に、具体的な情況をよく伝えてくれるので、やや専門的に部分が入ったのは間違いないが、非常に意義のある、よい紹介書となったのではないだろうか。




Takapan
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