本

『ベロニカは死ぬことにした』

ホンとの本

『ベロニカは死ぬことにした』
パウロ・コエーリョ
江口研一訳
角川文庫
\552+
2003.4.

 2001年に単行本として出版されたそうで、日本を舞台に映画化もされている。真木よう子さんがブレイクするきっかけとなった作品であると聞く。タイトルだけは見る機会が多かったが、映画はもとより、小説のほうも、本棚で見送り続けて今日まできた。それがついに手に取った。少しだけ内容を垣間見て、なんだか今読まなければならない気がしたのだ。
 タイトルがうまい。物語も、いきなりそのことから始まり、読者を引きこんでいく。世界中でよく売れた本なのだそうだが、タイトルと冒頭については間違いなくそれに値するものであろといえよう。また、人物の設定も、分かりやすいし、それでいてリアリティがあるようでないようで、戸惑いつつ、関心をもってしまう。
 ベロニカは24歳。世間的に見れば幸福であったに違いないし、人生で体験すべきことは体験してきたと言えるほど充実した歩みをここまでしてきたのだった。だが、死ぬことにした。小説の最初から、自殺する時が"ようやく!"来た、とベロニカが確信したことが書かれてあり、間借りの部屋を掃除して暖房を切り、歯を磨いて横になった、としている。そして、睡眠薬を取り出すのだ。いきなりこれである。こうして睡眠薬を飲んだ後、雑誌が目に入ったのでなんとなく開いてみると、母国スロベニアの話題が出ていたので気になる。それでいて、祖国のことなどどうでもよく、やっと自殺を実行する勇気を見出し、せいせいしているのだった。だが、やはり何か気になり、スロベニアの記事に対して一言言いたいと思い、手紙を書き始める。この辺り、自殺しようとする人の心理がどうであるのか知る由もないが、妙なリアリティがあり、人の心というものを追いかける作者の意図が強く感じられた。次第に薬が効いてくることになるのだが、ベロニカは胃がムカムカして仕方がなくなった。
 意識を失って、気づいたら美容室だった。ビニール管が鼻と口から出ている。こうして一命を取り留めたが、心臓に問題が残り、一週間もつかどうかという説明を医師から受ける。そしてもう一つ、そこは精神病院であった。これがその後の展開に大きな影響を与える舞台となる。ここから幾人かがサブキャラクターとして登場するのであるが、どれもそれなりに「異常」な人物なのだ。いまそれを細かく紹介することはしない。ただ、「異常」とは何か、という問いを読者に突きつけている点を受け止めておきたい。
 このことは、私もよく考えた。自分は異常ではない、と叫ぶ者が「異常」と判断されていく実情。しかし、自分は正常であるとい見なしている者が果たして「異常」でないのかどうか。えてして「異常」として捕らえられている者がそんなふうであることも私たちはよく見聞きする。「異常」とはそもそも何であるのか、考えてみれば定義が難しいのである。
 本書では「狂人」と訳してある。その狂人たちとの接触を通じて、ベロニカは変わっていく。そして、言うなれば生きがいを覚えるようになる。ただ心臓のダメージは大きく、如何せんもう自分でタイムリミットのボタンを押してしまったということになるのだが、さて、そこがどうなるか、はお読みでない方のために、伏せておくことにする。
 ブラジル生まれで、世界中を旅している作家であるということだが、作品の中にはキリスト教の文化を背景にしている部分が多々ある。そもそもベロニカは、修道院に間借りしていたのであり、そこで自殺を図るのだ。ベロニカ自身は、神を信じてはしない。だが、信じていない神に呼びかける場面がある。神をことさらに描かず、信仰者も登場させないが、背後にある神を感じさせるような描き方をしているのではないかとさえ感じるほどだ。ブラジルはそうした文化的背景があると言えるだろう。もちろん、信仰をテーマに記したかどうかは分からない。しかしベロニカが、幸福ではないと自らを思い、絶望していた中で、狂った人間たちと交わる中で、心に変化が与えられ、何が幸福であるのか、悟るというほどではないにしろ、絶望の暗闇から希望の光のほうに気づいていくという過程は、十分信仰に基づいた道であると呼んでも差し支えないものではないかと思えたのだ。
 それというのも、作品の最初に、聖書の言葉が掲げられているということが、ひとつの決定的なヒントとなっているように思われてならないのだ。その聖句は、訳者の訳によると、こうである。「わたしはあなた方に、蛇……を踏みつけ、……打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなた方に害を与えるものは何ひとつありません。」ルカの福音書 10章19節
 ルカの福音書という呼び方からして、これは新改訳聖書であることが分かる。事実、読点の有無を除いてはまさしくそうだ。省略された部分は「さそり」と「敵のあらゆる力」である。何の意図であるか分からないが、蛇ひとつで十分サタンをイメージできるので、そこに焦点を絞っているのかもしれない。ベロニカは自らその権威を手にしたのだろうか。あるいは、私たちが手にする可能性を期待できるのだろうか。ベロニカは睡眠薬、心臓という、生命を奪うものに取り憑かれたが、元来は幸福を見失っていた点があった。それで自分に害を与えることに踏み切ってしまったのだが、害を与えるものは何もないのだという世界へと誘おうとしているのだろうか。真意は私には分からないが、自由に読者が考えてみるとよい。そのように、頭に掲げられた聖書の言葉は、作品全体のための冠であることは間違いないのだから、一向に値すると思う。感想文を書いた人は世に多くいるようだが、この聖句に注目した声はとんと聞かないから、今後読まれる方はここにぜひ注目して戴きたい。
 小説自体は1988年、時代はそれからしばらく経ったけれども、若者に潜む虚しさのようなもの、人との交わりの中に何か解決の糸口があるかもしれないことなど、現代にも通用するような点はいくらでもありそうである。一時の流行で終わったとするにはもったいない。自分の中の狂気に気づくことがある人ならば、なおさら読む意味があるようにも思う。




Takapan
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