本

『内村鑑三所感集』

ホンとの本

『内村鑑三所感集』
鈴木俊郎編
岩波文庫
\927
1973.12.

 息の長い版である。2007年秋で11版を数えるが、34年を数える。
 無教会を唱えた内村鑑三の一途さは有名だが、彼は聖書そのものにこだわり、聖書の示すキリスト一点に集中する信仰姿勢を貫いた。聖書研究を毎月届ける『聖書之研究』の巻頭言として掲載した内村鑑三の短文をここに集めた。短い中にも、いや短いからこそ、本心が思い切り現れているともいえる。長い文は練らねば書けない。構成などを考慮する。しかし、短文は、比較的思いつきでも一言触れることが可能だ。まとまりがないままにも要点を告げる勇気が湧く。むしろ短い中に、本音が見え隠れするということもある。
 30年をかけて発刊され続けたこの『聖書之研究』の巻頭言の中から、編者が一定の分量の中に収まるように編集したのがこの文庫である。長文にわたるものを省き、また殆ど同じような内容のものは割愛するなどされているはずだ。それで、読者が内村の考えを知るには必要十分であると言ってよい出来であるだろうと思う。
 かなり過激である。自分の思いをストレートに伝えるというのは、自分が編集しているものであるから当然であるのだが、だからこそ、言いたいことをはっきりと伝えようという気持ちが強く現れている。
 当時の日本におけるキリスト教会に、内村は徹底的に抵抗した。教会が救うのではない、キリストが救うのだ、と主張した。それはその通りである。その教会の中に、欧米の宣教師の言いなりになり、あるいは世渡りのうまい、あるいは世で称賛を浴びるための方策を練るなど、内村からすれば許せない信仰の姿が目についたことは間違いない。また、それは一面現代でもないわけではない。だから、私のように、組織だっているとは言えないが、教会というあり方の中で生活している者は、お叱りを受けているような気になることがある。いや、内村にも行き過ぎはある。確かに組織が救いをもたらすものではないし、組織が偉いのでもない。だが、組織があればこそ福音は二千年の星霜を経て生き続けてともいえるし、内村の基盤たる聖書に基づいて信ずるものが集まり、共同体を形成しようとしたのも確かである。地上の教会を理想郷とするわけでないとしたら、そのあり方は単純に否定されるべきものではない。また、内村自身も、「無教会」という名の一種の共同体あるいはつながりを必要とし、その中での愛し合う人々のあり方を否めなかったのだ。そのとき、洗礼が救うのではないにしろ、あらゆる儀式を拒むことが適切であったのかどうかは、検討に値するものであろう。
 誰しも、置かれた状況というものがある。社会的なものもあれば、当時の教会を包む空気がどうであったか、も重要である。その中で内村も現れ、存在価値をもった。その信仰は頑固でもあり、また聖書に徹しようとするもので、さらに私から見れば、実に穿った見方がある。単純によい子の教えで通そうとするのでなく、逆説的であっても深く考えればなるほどと思えるような視点を、確かにたくさん提供してくれている。それは、聖書に深く沈潜し、思索し黙想した者が得ることのできる視界であるといえる。私も別の視点から見たらどうだろうかとよく思うので、この姿勢は理解できる。たとえば終わりのほうで、祈りとは自分が祈願するのでなく、神が自分を通して祈るのだ、と書いている。だから祈りは預言であるのだ、と。こうした視点を私は尊いものだと感じる。一定の耳に聞こえの良い教えを、そうですよ、と認めているうちに、人は自分が正しいもののように見なしてしまう傾向がある。原罪とはそういうものである。奇を衒うように見えるかもしれないが、つきつめていくとき、自分がそれまで気づかなかった新たな視点がふと与えられる。それを子どものように喜んで記す内村の気持ちは、私は分かるような気がする。
 親の反対を押して恋愛結婚した最初の妻を悪魔呼ばわりしたことも、信仰のなせる業であるのか、そんなことをふと思ってしまうのだが、だからまた、人の信仰というのは、その人の生きる姿勢の基盤であり貫く筋ではあるにしても、人との関係は思うようにならないものだとよく思う。そんな偉そうなことを言っているが実際生活であんたはこうじゃないか、と突かれれば反論もできない、というのか浅はかな人間の姿である。内村が激しく聖書信仰を叫べば、そのようなツッコミは当然起こって然るべきなのだが、それであっても、こうした所感に私たちはもっと刺激されてよい。
 この所感、いわば現代でいえばブログ発信のようなものであろう。内村鑑三が現代を生活していたら、間違いなくブログなどを利用して、日々その所感を発信したに違いない。私だってそのくらいのことはやれるのだ。内村がやらなかったはずがない。パウロもきっとしただろう、と思う私は、こうした過去の偉人の業績を、当時のブログなのだという理解で受け止めて、より身近なものに理解しようとすることがある。あふれる思いを抑えられなかった人々の情熱を、受け止めたいからである。




Takapan
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