本

『宇多田ヒカルの言葉』

ホンとの本

『宇多田ヒカルの言葉』
宇多田ヒカル
エムオン・エンタテインメント
\1400+
2017.12.

 きっかけはテレビ番組だった。宇多田ヒカルの歌詞に注目するという企画だったが、その言葉に私は捕らえられてしまった。さらにそのどこから出てきたか分からないような表現が、どんなふうに生まれてきたか、私は感覚的にピンときたのである。ああ、それ分かる、と言いつつその番組を見ていった。最後に小田和正のフィルムがあったが、小田の心に響くものはきっと私の心にも響くものだろうなどと思っていた。
 言葉がいい。その歌詞のついた本なんか、まさかないだろう、とばかり思っていたら、探すと、あった。半年前くらいに出ていたものであるから、最新のアルバムについては掲載されていないが、それまでの詩はすべてあるという。早速注文した。
 ところどころ、ゲストからのメッセージが短く載せられているほかは、宇多田ヒカルの歌詞が並ぶ。それだけだ。ゆったりと並べられているから、ひとつの詩で数頁必要となり、紙質もそこそこの普通紙なので、かなり厚みのある本となった。詩は確かに、こうしてゆったりと味わわなければならない。だから一日に読み進まず、一つから三つくらいの詩を日々見ていくことにした。
 英語が多い。しかし、日本語も、凡そ従来こうした詩には載せないであろうような言葉が不意に出てくる。それで耳をついそこに向けてしまう。ただ、これは私がろくすっぽヒット曲の歌詞を見ていなかっただけのことであって、近年、漢語を初め、意表をつくような言葉を歌詞に用いることがむしろ流行りのように増えてきているようだ。日常の文章をそのまま歌詞にしたり、あるいはわざと耳で聞いて分からないような言葉を持ちこんだりして、他とは違うと差異を強調しているのだろうか。もしかすると、そうでもしなければ、オリジナリティが出せなくなったのだろうか。先に挙げた小田和正などは、日常のありふれた言葉をただ並べる中に、誰も描けなかったような世界を映し出すことをモットーとしていたし、さだまさしは歌詞に用いないような語を用いるのは確かだが、日本語の古語や和語を蘇らせるような試みをして、独特の美学を呈しているように見えた。しかし最近は、奇異さを個性としなければアピールできないかのようにして、カタカナや妙な英語もさることながら、漢語も少なからず見られる。宇多田の場合もその路線のようでありながらも、実は違うような気がする。どうしてもそこでその漢語を呼び込まなければ、その内実が表現できないのだ。
 宇多田の場合、曲が先行するという。それはそれでよく分かる。その時、言葉が選ばれる。尤も私と違い、宇多田の歌詞は曲に不自然に乗せるので、かなり自由な幅をもっているが、それでも、その曲に流れ入る音節数を意識しないといけないし、彼女がそこまで考えているかどうかは知らないが、イントネーションの問題もある。それで、ある事柄を歌おうとしても、曲のために適切なほうの言葉を選ぶという場合があるわけだ。しかしそれはやむなく選んだという感じは毛頭なく、その曲を住まいとして落ち着くかのように、選択されていくことになるのである。
 母親の死のとき、彼女の世界が変わる。世界観が変わったのかもしれない。それまで当たり前のようにあった存在が忽然と消える。まだ若いとさえ言えるほどの年代であったので、なおさらであろう。見えない世界との対話が始まるとでも言うのか、世界の深まりができる。言葉がよけいに鮮鋭になり、胸の奥にある影が映し出されるかのように、暗さのようなものも現れ出る。
 彼女の詩のすべてが分かるなどというおかしなことを言うつもりはない。ただ、詩や曲に対する思いについては、かなり共有できる部分があるかもしれないと、テレビで話しているのを見て、感じた。私の中の、うごめいているけれども言葉にならないものを探すとき、これからもちらほら本書を開いてみようかと思う。ここから探せるかどうかは知らないが、探し方のようなものは教えてもらえるような気がする。行間に見えてくる心のように、私が形作りたいものに、そこで出会えるかもしれない。




Takapan
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