本

『中学生から知りたい ウクライナのこと』

ホンとの本

『中学生から知りたい ウクライナのこと』
小山哲・藤原辰史
ミシマ社
\1600+
2022.6.

 ロシア軍がウクライナを攻撃し始めたのが、2022年の2月。恐らく4月いっぱいくらいの情報をもとに、原稿が揃い発行された本だろうと思われる。
 中学生から、という言葉があるが、「はじめに」で断っているように、「大人の認識を鍛え直す」というところに主眼があるものと思われる。私はいつも言う。中高生向けという冠のついているものは、ずばり大人向けのものである、と。大人だったら、一読で分かると思われるからだ。新書というものは、大人が後戻らずにすらすら読める教養書、というのが本来のレッテルであったが、実情として新書を一読して把握できる大人は限られている。だが、中高生向けの本であれば、その点かなり理解が進むだろうと思われるし、一読で大切な点を理解するという目的には、最も近いところのものである。
 ウクライナ。私たち大人にしても、チェルノブイリ(いまはウクライナ発音に近いチョルノービリとするのが一般的)と、穀倉地帯くらいしか認識がなかったのではないか。キエフ(いまはキーウと表記)大公国や、いくつかの聖堂などが思い出されるならば、けっこうよいほうだったかもしれない。
 政府もマスコミも、ひたすらロシアが悪であり、ウクライナは善であるという単純な図式の思想を、日本国内では普通に流している。そして、攻撃された街の風景を映しだして、けしからんなどと言ったり、人々が可哀想だなどと口にしたりしているが、それはどうなのか。あまり省みる気持ちはないようにも見える。どうして単純な図式が決められてしまうのか。果たして、その判断の根拠を、私たちがどれほどもっていることだろうか。ロシアにはロシアの言い分がある。その言い分はすべて無意味なのか。また、それは何故か。
 恐らく、そうした点について考えたいと思った人のためには、本書が最も適しているだろうと思いたい。著者たちは、ウクライナの専門家ではない。ポーランド史や、現代史の専門家である。だが、ポーランド史を研究するということは、同時にウクライナとは何かということを説明するに等しいことになる。その歴史的な経緯については、なかなか複雑であり、私もすっきりと整理できているとは言えない。
 こうした戦争あるいは侵攻については、ともすれば、その原因は何々で、その背景にはこうした事情がある、と説明することで、理解できたような気になるものである。だが、1000年の歴史を振り返り、経緯を辿るということをしなければ、根っこにあるものが少しも見えてこない、ということはあるものだ。本書は、そうした「そもそも」のところをちゃんと掘り起こしてくれる。私はそこに、信用できるものを感じたのである。
 しかも、この問題に並々ならぬ関心をもつが故に、この侵攻を食い止めるべく、新聞にその論評が掲載されている。「生活と文化と歴史への無理解が危機を招く」というサブタイトルが付いている(p027)。これはもちろん、日本全般がこの無理解状態である、ということに警告を与えているのであるが、このサブタイトルは、もって敷衍して、強力に訴えかけて然るべきフレーズではないだろうか。少なくとも私はそう思う。
 その上で、本書の論者2人の立場は、はっきりしている。ロシアによるウクライナ侵略に、断固としてノーを言い渡すというものである。過去の歴史も、いくらでも悪用できる。かと思えば、過去ウクライナと紛争や対立のあったポーランドが、そしてもちろん自ら分割の憂き目に遭ったそのポーランドが、いまウクライナからの難民を受け容れることの先頭に立っている。歴史は、このような形で、生きてくることがありうるのである。
 それから、日本は傍観国ではない、ときつく言う。当事者意識が薄すぎる、と。いま恰もロシアだけが酷いことをしている、と吠えることができる情況ではあるが、アメリカが、紛争だとか人権だとかいう理由をつけて、南から西のアジアに対して兵器を打ち込み、一般市民をも殺害していたことには、どうしてこれほどの反対をしなかったのか。どれほどの違いが、そこにあるのだろうか。これは、徹底的に追及しなければならない問題である。あのピンポイント爆弾を見て、多少は胸を痛めたかもしれないが、あれは「仕方ない」とか、「当然だ」とか、私たちは言っていたのではないだろうか。
 歴史学は、戦争から出発している。著者は、若いところに気づいたこのショッキングな事実に悩んでいたけれども、「割シャワ連盟協約」のことを知り、心が救われたことを最後に記している。宗教的対立で殺し合った近世ヨーロッパで、ちがった考えをもつ人を迫害しないことを誓いあう人たちがいた、というからである。もしかすると、ただの「戦争を知らない子ども」でしかなかったかもしれない自分が、戦争と歴史について研究したことは、いまこのときのためにも、きっと意味があったのだ。もし私が著者だったら、そのように思うだろう。ポーランド史専門だからこそ書けた、ウクライナ問題であったと評価したい。私も何もできないが、祈ることだけは、できる。それは、自分の罪を思い知らされる中での、祈りである。但し、自分を善人として見立てた中での祈りなどは、いらない。それは、祈りではないはずだからである。




Takapan
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