本

『内村鑑三をよむ』

ホンとの本

『内村鑑三をよむ』
若松英輔
岩波ブックレットNo.845
\525
2012.7.

 薄い本である。もはやワンテーマで、切り込みも一個所、というような書き方がなされるのが普通である。その割にはざっくりと大きな規模でタイトルが付けられている。
 しかし、これはなかなか適切なものであったかもしれない。というのは、この本で内村鑑三をすべて見せる、というような書きぶりではなく、「読む」ということに焦点を当てている。つまり、著者の、内村鑑三についての読書体験を語るような流れをここに示して、内村鑑三を読むとはどういうことなのかを、具体的に語ろうとするかのようなのである。
 短い本であるからなおさら、導入にも工夫がある。内村鑑三の常識像を覆すかのような表現をとる。内村鑑三は、教会はもちろんのこと、キリスト教も、無教会主義なるものも否定したのではないか、と。もちろん、それは特定の意味をその言葉にもたせた上での言明である。どんな意味であるのかは、読み進めば分かってくる。
 明治期、いわば輸入したキリスト教の中に、内村鑑三は何らかの虚偽を見ていた。それは真実ではない部分がある、と。極端に言えば、聖書を読むことすら、偶像礼拝のようになりかねないと考えているかのようであった。
 著者が、内村鑑三に関して強く訴えたいその考え方は、早くも5頁目に出てくる。「読む」とは、それを書いた人間に出会うことである、と。
 その後、内村鑑三の人生のひとこまをいくつか見せる形で進んでいくが、その二つの著書に限定したかのようにして、書かれてあることにこだわっていく。『後世への最大遺物』と『基督教徒への慰』である。正確に言えばもうひとつ、『代表的日本人』も加えるべきだろうが、先の二つの著作は、実は著者が出会って熱中した最初の2冊なのだそうである。あとがきに書いてある。それらにより、その著者である内村鑑三に出会ったのだ、という。その強烈な体験が、この薄い本の息吹のすべてであろうと思われる。
 ある事柄の資料的な裏打ちや、その生涯の様々なエピソードなどに触れることは、これだけのスペースでは、できない。だからこそ、実はこの本の読者は、ぶれずに最後まで真っ直ぐに突き進むことができる。細かな論拠などはともかくとして、どんどん要点を目の前に並べてくれる。案外、これが読みやすい。そういう役割を、この小冊子は受け持っているものだと思うし、そうした形で貢献すればよいと思う。むしろ、スッキリして読みやすいのは本当なのだ。
 改めて、この明治期の偉大な人物をたどる。私が最近心がけてきたことだ。かなり変わった人物であるのは確かだが、その言葉を聴く価値は十分にある。今の世の中に必要な警鐘であるのかもしれない。あまりに崇拝するのもどうかとは思うが、何も知らないで悪口を言うような愚かなことだけはしたくないものだと思うものである。




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