本

『TVピープル』

ホンとの本

『TVピープル』
村上春樹
文春文庫
\457+
1993.5.

 英語で読む村上春樹、のようなタイトルでNHKのラジオでこの作品が取り上げられていたことを覚えている。元々の作品を読んだことがなかったので、なんとも分からない内容だと感じていたが、さて、日本語のほうをこのたび読んでみた上でも、なんとも分からない内容だというままだった。
 それが村上作品の魅力であるともいえる。誰にでも、これがこうでああなのだ、と説明してまとめてしまうことができない、そのようなストーリーだ。不思議で起こり得ないこと、それがうまく読者の気持ちを誘い出せば、心地よく現実を逃避できる。それでいて、自分の身の回りにも、実はそうしたことがすでに起こっていること、あるいは起こり得ることを感じる気持ちにさせてくれる。やはりそこに魅力があると言うべきなのかもしれない。
 TVピープルが僕の部屋にやってきたのは日曜日の夕方だった。
 一行目から、もうその渦中に私たちを連れて行き、ぽんと置いてけぼりにする。それでいて、たっぷりと状況説明をここから始め、心構えをさせる。このTVピープルの音だけが、ようやく一頁先に聞こえてくる。その外見はさらに次の頁になってしまう。
 描写は詳細に渡り、なにげない動きや様子もちゃんと描かれる。だが、どうにも像を結ばない。これがまた不思議である。つまり、映像化できない構造になっている。これを映像化してしまった瞬間、無数のハルキストたちのブーイングが起こるであろうからである。読者それぞれの心の中に、このTVピープルたちが現れ、動き、主人公に影響を与える。彼らは「僕」を無視して、好き勝手なことをする。僕はシカトされたまま、部屋を扱われるのだが、ここで例の如く、僕の「妻」が登場する。その女性の姿は、数々の村上作品にありがちな、自分の道をもっていて、かといって理論的な支柱があり論理的原則に従って行動しているとも思えない、そしてついに夫を棄てる、そういった空気に満ちたものとなっている。
 音楽的なリズムを刻み、僕はいかにも村上作品にあるような男の行動をとりつつ過ごすが、TVピープルに、妻がどうなるかを告げられる。まるで、妻との生活に不安を覚える男の潜在意識であるかのように、TVピープルは登場し、僕に呼びかけてくるのだ。
 本書は短編集である。表題作のほかに、『飛行機――あるいは彼はいかにして詩を読むようにひとりごとを言ったか――』『我らの時代のフォークロア――高度資本主義前史』『加納クレタ』『ゾンビ』『眠り』が収められている。加納クレタとはファンからすれば言うまでもなく、『ねじまき鳥クロニクル』で異様な味を出して登場する姉妹の一人でもある。恐らくこの短編で登場させたキャラクターを、数年後の長編作品の一部として、このままの設定で採用して膨らませたという具合なのだろう。こういうことはしばしばあることである。
 それぞれに、ぞっとするようなものを含みながら、中途半端なところで最後に突き放すといった、この当時の作品の魅力に溢れている。『眠り』は美本の形で別に読んだことがある。改めて読むと、文字だけであるだけに、いっそう自分の中で情況を思い描く怖さというものを感じた。
 これらの中で、不思議な出来事をひとつも含まないものが実はあった。『我らの時代のフォークロア――高度資本主義前史』である。高校生時分に付き合っていた女性との思い出話を友人から聞くという設定なのだが、時代性もあるのだろう、21世紀には流行らないような交際であるかもしれないけれども、私には格別の印象を遺した。もとより村上春樹の作品に登場する女性は、古風なところもなく、しばしば肉欲的で、貞操観念といったものがあった時代のものではないと言える。だが、この作品には、一種の貞操観念がテーマとなっており、最後の一線だけはどうしても踏み越えないという形での恋愛のあり方が描かれていた。この辺りが私には個人的に響いたのだ。奇妙な言い方をするが、「分かる」のだ。この男の側はもちろんのこと、女の側の言い分や感情、そうしたものを肌で感じてきた世代でもあるし、また個人でもあったのである。ファンにはお叱りを受けるような言い方をしてしまうが、この作品については、隅々まで、まるで登場人物その人であるかのように、精神移入ができたのだ。そもそもペッティングといった言葉自体、いま若い人は知らないのではないかと思うが、そこまでだというひとつの壁と、相手への恋愛感情とのバランス、男として女としての感覚のずれと引っかかり、そうした一つひとつの情景が、苦しいほどに迫ってくる。
 作品として評価するような偉い人間にはなれない。時折自分自身を見出すような苦しさと腑に落ちる共感とがあれば、ある時間にその世界に飛び込むだけの価値がある。そのためには、短編というのはいいものだと感じさせてくれる。ひととき、いまを逃れることができるような気になるからだ。そしてそのことは、一層、「いま」を大切にしようという気持ちに、改めて導いてくれるような気にも、させてくれるのである。




Takapan
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