本

『トマス・アクィナス』

ホンとの本

『トマス・アクィナス』
山本芳久
岩波新書1691
\860+
2017.12.

 副題が『理性と神秘』で、これが最後にきてなるほどと落ち着く気持ちでよい看板となっている。もちろん最初からこのテーマはあると言えるが、いろいろ苦労して最後まで来たとき、しみじみとなるほどと肯ける仕組みになっているようにも思える。あるいは私の読み方が幼稚だから、そう感じたのかもしれないけれども。
 その「序」がやはり印象的である。それは帯にも取り出して見せている。「入門書」とはなんぞやという話である。これは入門書であるというが、決して簡単ではない。いかにもトマス・アクィナスについてさらりと触れていきますよ、というような薄っぺらい羅列のようなものをして、入門書と呼ぶべきではないという考え方なのだ。いや、そうではなく、歩みは遅くとも読者自らが地を踏みしめながら歩き始めることができるように促すものであるべきだというのである。
 その意味で、トマス・アクィナスのあらゆる面を紹介しようとするのではなく、その思索の要になる部分の考え方を読者にそうなのかと考えさせたい、と著者は考えている。だから、新書という制約もあるわけだが、トマス・アクィナスの思想のほんの一部を、しかしそこを押さえれば他を読み進めることも可能だというような、理性と神秘という点についての考え方を浸透させるために、新書というフィールドをフルに活用しているのである。
 抽象的な議論は難しい。そこへいくと、著者はその議論を具体的な、現代における生活感覚に沿う具体例で説明しようとすることが多々あり、それがなかなか面白い。実に卑近な例も挙げながら、そういうことを抽象的に言えばトマス・アクィナスの哲学のようになるのだと読者も結構面白がることができるのではないだろうか。少なくとも私は時折にやりとしながら、楽しませて戴いた。
 トマスは、アリストテレス主義であるなどと言われる。それを踏まえて議論を構築することは確かにある。しかし、安易に主義名で呼んで分かったつもりになるというような軽率な捉え方をしてほしくないというのであろう。トマスがアリストテレスをどのように見てどのように使っているかを明らかにしようとしている。そのために、いくつかの準備をするのであるが、まず「徳」という考え方である。ギリシア語を読んだのでなく、ラテン語だけで壮大な神学を構築したトマス・アクィナスであるから、日本語で「徳」と呼んでそれでよしとするのも難しい。日本語では伝統的にそのように訳していたとしても、実のところラテン語でのニュアンスはどうか、そしてトマスはその語を用いて何を言わんとしているのか、これを見せつける。その際やはり生活感覚ある実例の中で説明してくれるので、そのあたりはやはり入門書に相応しい。
 その「徳」が信仰・希望・愛に結びつくトマスの論を辿り、カリタスを詳しく説明し始める。愛と言ってしまうことのできないカリタスは、神の側から、そして人間の側から扱われるときには、日本語では別の語を用意したほうがよいといえる。あるいはいっそのこと、概念は読者に委ねるとして、カリタスという訳語で統一するという手もあったことだろう。著者はそのあたりをある意味で迷いながら、しかも訳し分ける意義とその図式を語りかけるように分かりやすく解いてくれる。そのあたりはさすがだという感じだ。
 こうして、いよいよ理性と神秘というテーマで、ここまでの議論を締め括る。中世の神学はゴシック的な建造物であるかのように、がっちりと揺るぎなく建て上げられている印象があるが、とくにこのトマス・アクィナスはそれの見本のようなものであろう。アリストテレスやアウグスティヌスなどの考え方を引用のように用いて、それに対する自分の検討を施して、新たな側面からテーゼを出していく。これが、膨大な量の著作を生み出した所以である。
 それにしても、私自身、中世的思考に対してなんと鈍く、稚拙な頭脳しかもっていないのだろうと悲しくなることもあった。人間くさいエピソードの入らぬ、息の通い合わないような議論の建造物は、無駄とは言わないが、どこか味気なく、またよくぞそんなことをちまちまと命懸けで綴り議論ができるものだと、別の意味で感動するほどである。自分の中の無力な読解力と思考力をまざまざと見せつけられるようであったが、そのことは、本書の価値を下げることはあるまい。否、むしろ価値を高めるためのエピソードであってほしいとすら願うのであった。




Takapan
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