本

『説教 テサロニケ人への手紙』

ホンとの本

『説教 テサロニケ人への手紙』
小林和夫
日本ホーリネス教団出版局
\1800+
1995.7.

 小林和夫先生による説教のシリーズのひとつを、いままた手に取ることができた。パウロの初期の書簡・テサロニケ人への手紙を辿る説教である。パウロにとり初期というばかりでなく、新約聖書の中で最も最初に成った文書であると研究されている。パウロが、再臨が近いと昂奮している様子も伝わってくるし、逆にまた、それに浮ついて世での働きが手に着かないようなことになってはならないことを戒める。
 手紙は2つに分かれている。研究者の間では、第一のものはパウロによる真筆で初期に違いないが、第二のものはパウロ自身ではないだろうと考えられている。だが、私たちはパウロという人間を信仰しているのではないため、第二のものであれ、そこに記してあるように、パウロが書いたとして語るほうが話しやすい。それを通して神からのメッセージが何であるかを聞き取ることを目指すというのが、賢明な受け取り方であるかもしれない。
 著者というか説教者もまさにこれはパウロがという言い方で統一し、この第一から第二への流れを、ひとつのものとして受け取り、そこから受ける神の福音を語ろうと努めている。その姿勢でよいだろうと思う。
 短い書簡を九つに分けつつ語るとあって、基本的に同じ視点、同じ前提で話を進めていくことになる。それで、これらの説教が2カ月なり数カ月なりに分けて続けて語られたとしても、この書簡がそもそもどういう前提で何を言おうとしているか、というスタンスについては、毎度復習めいた言及があるということになる。実はこれが、読者としてこの本に対する私たちにとっても都合がよい。説教集を私は愛するが、たとえ本を読むのが速いとしても、つらつらと横断するように一冊を読了してはもったいないと思っている。それで、一日に一本だけを読むことにしている。何かの事情があれば、二本。それくらいだ。そして、礼拝説教を受け止めているのと同じわけだから、その日の糧とする。本書もまた、そのように読み進むこととなったが、そのときに、先の説教でどういうことが言われていたか、の復習があると、実際講壇からこれを聞いた人もそうであろうが、読者としても立ち位置を確認できる。そうだよね、と思いながら、新しい観点を受け止めることができるのである。
 説教には、その人なりの型がある。この場合は、おさらいや一般的な事柄、あるいは問題提起をして、それを考えるために3つくらいの柱を提示する。そして、その3つの柱を一つひとつ細かく検討していくというのが中心である。そして、最後に総括して、信仰生活への勧めでまとめるという型である。いつもそうなので、どこをどう押さえていけばよいのか明確であり、聞きやすいものであろうし、読みやすくもある。がっちりとした構造の中で一部屋ずつ鑑賞していくような感覚で落ち着いて受けることができるであろう。
 だが、それを鑑賞するというのは、実は正しい表現ではない。語られる神の言葉、そして説教者を通じてもたらされる神からの問いかけ、これは聞く者自身に突きつけられている。問いかけられている問いにどう応えるか、それが問題である。
 本書では、まずテサロニケ教会が短い滞在期間の中で生まれた教会であったにも拘わらずひじょうに恵み豊かな福音の成果を示した教会であったことが語られると、先にご紹介したが、再臨あるいはこの世の終末の問題がはっきりと示される。しかしまた、慌てず騒がず、この世で清められた生活をするべきであるとまとめられていく。こうした意味では、現代の私たちも、実はほぼ同じ状況に置かれている。神がパウロを通してこの教会に語られた問いかけは、読者であり現代ここから宣教を聴く私たちへ向けて投げかけられているものであるし、それに対して私たちがどう応えるか、それが、私たちの神に対する姿勢であり態度ということになるだろう。
 中には、ホーリネスの戦時経験も豊かに語られる。いわゆる弾圧事件にこの教団は関わっている。戦時昂揚に加担した形となったキリスト教世界の中で、死を覚悟で、また実際死を以て抵抗し、貫く信仰を有している教団である。そこから学ぶことが、これからの日本の歴史の中で、できるならばなければよいがと思うのだが、不法がはびこる預言の中で、この終末の問題、キリストの再臨という教義については、改めて聖書から問いかけられる必要があると思われる。そのための、福音的な契機とするのに相応しい説教集である。




Takapan
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