『オズの魔法使い』
バウム
守屋陽一訳
ポプラ社
\570+
2005.10.
有名な作品である。しかしいやに単純で読みやすいと思ったら、巻末に記されていた。「この本は読みやすいように書かれています。」「この作品は、1980年ポプラ社発行の『オズの魔法使い』の新装版です。」というのだ。どうりで、ぽんぽん場面が飛ぶようになっていたのだ。きっと描写がもっと細かく、展開にもゆっくりと期待感があったのだろう。
小さい頃、世界文学全集を親が揃えてくれていた。オズの魔法使いもあった。でも全部読んだだろうか。読んでいたとしても、忘れて当然だろう。しかし、無知というものは救いようがない。梨木香歩の『西の魔女が死んだ』を読んだときに、オズの魔法使いを思い出さなかったのは不覚だった。
いきなり1頁目から、ドロシーは奇想天外な場面に巻き込まれる。たつまきでどこかへ飛ばされるのだ。そこからは、かかしやブリキのきこりと出会い、おくびょうなライオンをも連れて、魔女を訪ねる。そうすれば元の家に帰ることができる、と聞いたからだ。
魔女は東西南北にいる。そのうち、良い魔女と悪い魔女がいる。「良い魔女」というのはなんだか形容がおかしいような気がしないでもないが、魔女狩りをした人類の過ちを振り返ると、いくらでも「良い魔女」にいてほしいと願う。
もちろんその冒険談の一つひとつをここで辿ることはしない。ファンタジーでもあり、多くのキャラクターの魅力は、読むことでわくわくを受けてほしいと思う。その展開は、どの場面をとっても魅力的であり、映画やミュージカルにもなっている。
そういえば、桃太郎の話も、お供が三人いた。そして悪い鬼を退治しに行く。目的や背景はもちろん異なるが、構図が似ていなくもない。だが、本書は、このお供立ちが生き生きとしている。決して桃太郎の道具のような存在ではない。
かかしは、脳みそが欲しい。ブリキのきこりは、心臓が欲しい。また、ライオンはおくびょうであった。勇気が欲しいのだという。いろいろ話を聞くと、とびきりの魔法使いがいると知る。オズという魔法使いに会えばそれらの望みが叶えられる。そう信じて冒険する。
このオズについては、もちろんネタバレをしてはならないから黙っておくしかないが、三人(?)の願いについてはどうなったか、それも十分には伝えられないにしても、少しだけ触れておこう。実は読んでいけば当然感じることである。もしかすると気づかない読者もいたかもしれないが、たいていの読者は、気づく。悪い魔女との戦いを含め、さまざまな困難を乗り越えていく彼らは、互いに協力し、助け合っていく。それは物語の上で当然だろう。だが、その戦いなどの折、かかしは実によく事態を考えているし、ブリキのきこりは命ある活動をし、また温かなハートをもっている。ライオンは、勇敢に戦い、敵をやっつけている。
私たちは、自分にはこんなものはない、と自分で決めてかかることがある。そして、そうしたものが欲しい、と切に願う。ときに、自分にはそれがないから、と言って何もしないことの弁解理由に用いることすらある。自分らしく輝くことができるチャンスがあるのに、どうせ自分にはできないのだ、と引っ込んでしまうこともある。だがそうなのか。夢中になって誰かを守るために、自分にはないと思いこんでいるものを、ふんだんに用いて活動しているということは、ないだろうか。
あれがない、これがない、と嘆く前に、夢中になってできることを見つければいい。他の誰かの評価を気にする必要はない。役者は巻末の解説の中で、これをいかにもアメリカ的な考え方だとしている。確かに、随所に、日本人とはずいぶん違う発想や行動が見られ、アメリカそのものかもしれない、というふうに見えることは沢山ある。だが、子どもたちに向けてこうしたひとつの「勇気」を与えることができる物語は、全世界に向けて届けられてよいはずなのだ。ただの権力や悪との戦いというだけでなく、自分の可能性について目を開かせてくれるメッセージは、きっと、何ものかに欠けている子どもたちに、力を与えることだろう。
そうでなくても、子どもには想像力がある。何かが「ある」つもりで「ごっこ」ができる。絶望的な世の中に悲嘆するのではなくて、きっと「ある」と信じる力は、大人などよりずっと大きく、強い。こうしていると、子どものようにならなければ神の国に入ることはできない、というイエスの言葉が、ひしひしと伝わってくるような気がした。私もまた、「ある」ことの力を、いま受けているのだろうと思う。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド