本

『タルチュフ』

ホンとの本

『タルチュフ』
モリエール
鈴木力衛訳
岩波文庫

1956.11.

 懐かしい。入手した岩波文庫には、「定価★」と記されている。1974年の第18刷ではあるが、当時だと★ひとつ70円に値上がりしたところではなかっただろうか。ドイツのレクラム文庫を模範として日本初の文庫が生まれたのが1927年であった。
 それはそうと、本書はモリエールの作品の中でもなかなかの人気だったものだという。1664年発表であり、作品の扱いについては様々な経緯がある。受け売りの発表の場ではないので、詳しくはそれ相応の検索先から情報を得て戴きたい。日本語訳も20世紀初頭から多種出回っている。有名な戯曲である。
 日本語に題が組み替えられたものには「ぺてん師」と入れられたものがあり、「偽善者」と称せられたものもある。タルチュフというのは、登場人物の1人で、その偽善性が物語の主題となっているのは事実である。この鈴木訳の登場人物紹介では、タルチュフを「偽(にせ)信者」とだけ説明している。
 パリのオルゴンという父親とその一家にタルチュフが関わるわけだが、父親がこのタルチュフを、信心深い素晴らしい人物だということで、娘と無理矢理結婚させようとする。タルチュフが登場するときには、実に信仰に満ちた言葉を繰り出し、周囲の人々もそれを信用している様子が伝わってくる。だが、幾人か登場する若者たちは、このタルチュフの中身が実はそうではないことを見抜いている。それでなんとかしようと画策するのだが、逆にタルチュフが本性を現し、オルゴンを家から追い出そうとする。さて、それからどうなるか、というところが終幕である。
 モリエールがこれを喜劇として書いたのかどうか、分かりないというが、出来映えはやはり喜劇となっている。信心深いふりをした者が、とんでもない大嘘つきで下賤な心をもっているという設定である。読者あるいは観客は、すでにそれを知っている。だから優位な立場で、そいつの偽善が暴かれるのを楽しみに待つといった具合なのである。
 17世紀フランスは、フランス革命よりも百年以上前である。宗教的な問題を揶揄するような描き方をすると、危ない情況でもあったようだ。実際、これが上演禁止になるなど、物議を醸したということも伝えられている。だが、それから350年以上経ってこれを見ると、ある意味で安全に楽しめることになるし、いまの世の中からすると、余裕をもってその偽善性を眺めることもできる。カルト宗教や金儲け主義の宗教団体がはびこる世の中は、進歩がないと言えばその通りだ。ただ、当時カトリック社会でこれを上演し、それを喜ぶ客が少なからずいたことは、やはり教会支配の中に、人々が偽善性を見出しており、そうした背景があった、ということを意味するのではないかと思われる。つまり、信心深い態度をとり、何かと神の思し召し云々などと口にし、いかにも敬虔な様子を見せながら、心の内では欲得ずくであるのではないか、と疑わせるものが十分にあったということである。否、疑うどころか、そうしたものと庶民の多くは思っていたのかもしれない。いまなら、「政治家はどうせ……」とか、「芸能人なんてしょせん……」とか、その腹の底を想像することがあるのと似ているかもしれない。
 宗教者の中にある本心、そして表向きの立派さがそこにあるなら、正に偽善であろう。しかしそれは、この時代に突如芽生えた見方ではない。そもそも福音書に、そのようなことをイエスが批判している様子がいくらでも見られる。ファリサイ派や律法学者をずばら「偽善者」と呼び、そのありさまを露骨に、徹底的に非難しているのである。彼らを批判することで生じたはずのキリスト教なのだったが、そのキリスト教が、支配層となり組織化していくと、まことに当初批判していたあのファリサイ派や律法学者を演じている、というのである。
 それは当然の批判であり、教会側としては、自戒すべき事柄である。私はこのタルチュフのようなところまでこき下ろすようなつもりはないが、心に忍び込む罠というのはもっと巧妙であり、自他共に気づかぬところで、偽善を呈してしまっている、ということになりうるだろうと考えている。自分ではそうしているつもりはないにも関わらず、そのようになっているとすれば、これはただの「偽善」ではない。本質的に自己認識ができないのであり、「自己欺瞞」と呼んでよいかどうかの瀬戸際であろう。
 そういうわけで、これをおおっぴらには笑えないのが、私の印象であった。もちろん、それは私自身のことなのだ、と預言者ナタンに指摘されれば、私はひれ伏すしかないであろう。気づいていない分だけ、なお私には非があることになる。
 ちょっとばかり、「痛い」喜劇だ、というくらいで終わっておこう。




Takapan
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