本

『テレビの日本語』

ホンとの本

『テレビの日本語』
加藤昌男
岩波新書1378
\840
2012.7.

 NHKアナウンサー、そしてその放送研修センターで指導にあたる著者が、テレビの歴史を自ら生きてきた中で、日本語について万感の思いで綴る好著である。今の文は、長くて分かりにくい。よけいな修飾を抜いて、もうひとつ別の文にすべきだ。少なくとも聞いて理解する放送の言葉は、そうでなければならない。そんなことまで、この本には書いてある。
 テレビ登場60年まであと一年となり、それがどういう歴史を刻み、どういう未来を創ろうとしているのか、言葉という面から切り込んでいく。いや、確かにそれは必要だし、ある意味でそれで十分かもしれない。テレビが登場して、ラジオ以上に、言葉の標準化が進んだ。日本列島各地に、同じ言葉が行き渡った。福岡でも、子どもたちの口からどんどん博多弁が激減している。絶滅危惧と呼んでもよいくらいだ。それが、美しい標準的な言葉として統一されていくならまだしも、いわば無責任に発される、言葉に無知な芸能人が垂れ流す日本語によって、誤用も広まっていくということになると、テレビの及ぼす影響は、たまらなく大きい。
 この本は、まず2011年3月11日の東日本大震災から始まる。テレビのことばが、実に貧弱であったのだ。「ご覧いただいている画面は……」と、劇場で傍目から見ている観客と同じ視線をアナウンサーたちが提供していたことに、たいそう心苦しさを背負っているようなところから楔を打ち込んでいった。
 NHKアナウンサーは、言葉に対する保守的な立場を貫く。ことばは生き物だから時代によって変わるのは当然、などという論理をかざすのは、結局のところ国語に関心がなく、これまでと違う言葉が新しく優れたことを述べていると勘違いしている輩でしかないのだ。日本語は乱れているのではなく、変わっているだけだ、などと言い訳ばかりする。歴史に裏打ちされた厚みのある言葉を学ぶ我慢ができず、おもしろおかしく周りに通じた新語のほうがいいのだ、と、駆逐する悪貨のようなありさまの愚かさを認めることもない烏合の衆が、日本語を崩していく。
 言葉に対する責任とは何か。NHKでの毎日の出来事に私は舌を巻いた。放送終了後、もしも大地震のような災害が緊急に入ったら、どのようにするか、毎晩打ち合わせをするのだという。担当が夜番をする。そのとき、もし仮眠をとっている間にでも緊急連絡の必要があった場合、どのようにするか、毎晩考えているというのだ。これなのだ。東日本大震災のときもそうだが、やはり災害においてどこのテレビ局から情報を得たいと思い、また信用するかというと、現実にNHKであることは、阪神淡路大震災のときから変わらない。それは、こうした「もしも」の場合に備えて待機している毎日の積み重ねの故であったのだ。
 放送メディア、とくにこのテレビによって、日本語は大きく変わっていく。だが、国語学者も、その点は十分検証できず、従来の路線での言葉の変遷を見守るようなふうにしかどうしてもできないでいたように見える。しかし、やはりこのメディアは過去の歴史における言葉の変化とは決定的に違う大きな影響を有している。その点を、学者は体験的に扱えない。その点を、著者は、テレビと共に歩んだ一人として知っている強みがある。これは他の国語研究家たちが、大いに参考にし、取り上げなければならない事情であると私は思う。実際にNHKは何をしてきたか、これから何を伝えていくか、その実践の中に、これまでの国語のあり方が反映されており、またこれからの国語を創造していく力がある。これを踏まえないと、まるで教育現場を知らない教育学者が教育制度を決めていくかのような、奇妙な権威による失敗が続くような気がしてならない。
 最後には、昭和天皇が亡くなったときの放送の実情を明らかにして、一種の非常事態における言葉の問題点をシミュレーションしようとしている。若い人が見たら、頑固な親父がほざいている、としか思えないかもしれないが、言葉に知悉した人に対して、知らない者がよってたかって騒ぎ出すというのは、殆ど暴力である。まずは聞いてみたらどうだろう。経験を重ねつつ、言葉を選んで語る先人の声を、果たしてまずは正しく聞き取ることができるであろうか。それができずに、自分たちの言葉だっていいじゃん、と開き直ることがあるとすれば、それ自体、もう日本語の破滅へのスイッチを入れるようなことでしかない。
 まさに今この時代における言葉の問題について、これほど実証的で、説得力のある本は、私はほかに知らない。決して机上の空論などではない。震災におけるニュース原稿なども丁寧に調べ上げて告げる著者は、どうしたら命を守ることができるのか、そこへも切実な気持ちをぶつけ、祈る教育者のように、これから言葉を受け継いでいく若い人々のことを案じている。
 具体的に何をどうしろ、というものではない。だが、事実的に何がどうであったか、それをきちんと告げる本は、信頼がおける。その気持ちを、私はこの新書の巻末にある索引の中に見た。新書とくれば、入門書よろしく読み捨てればよい、という程度にしか考えない人がいたら、少なくともこの本についてはそれは間違いだ。索引により、あのことはどこい書いてあったから、探しやすくしている。この日本語への警告のような本が、再び読まれ、他へ訴えていくための素材として使われることを想定して、流行語や話題の言葉についてどこで論じてあったのか、調べて開くことができるように配慮しているのである。
 テレビで間違った言葉がばらまかれている中で、何かおかしいと感じている方々なら、この本に刃向かうような心は起こるまい。テレビの歴史における日本語の変化について、多くの読者ひとりひとりに、考えてほしいと著者は思っているに違いない。貴重な史料であるとともに、未来のための布石でもあると私は願ってならない。




Takapan
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