『アメリカの小学生が学ぶ教科書』
ジェームス・M・バーダマン編
村田薫編・訳
ジャパンブック
\1680
2006.3
英和対訳形式で、英語を学ばせてくれる本ではあるが、内容そのものがまた輝いている。そもそも私などは、算数の用語すら、英語で言えない。英語圏で本当に生活したかどうかを試すためには、計算や図形などを英語で言わせればよいという説もあるそうだが、肯ける。生活していれば計算などは当然必要であるのに、普通に学ぶ英語には、まずそれは出てこないのだ。
アメリカの小学生の教科書から、国語算数社会理科について興味深いところを抜粋したものであり、子どもじみたものではないかと予想することもあるだろうが、事はそう簡単ではない。
一年生で、様々な宗教や信仰があることを説明し、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教について、深い学びをすることができる文章をたっぷり読ませるなど、私たちから見ればショックである。たしかにアメリカという自由主義を誇る人種の坩堝の中では、宗教の理解は不可欠であろう。しかし、一年生である。
仏教を含む東洋の宗教については二年生。ギリシア神話についてもそうである。それも、内容的に子ども向けなどではないようにしか見えない、立派な解説となっている。日本であれば、中学生はとうに超えている。
六年生には読み物として、ケネディの大統領就任演説があるわ、キング牧師のI Have a Dream.の演説があるわで、驚くものである。日本で、はたして吉田茂の所信表明演説が、教科書の文章になるであろうか。いかに日本での「言葉」が虚飾に過ぎないかが痛感される。言葉に魂をこめることのできる文化と、言霊というのは専ら祟りの場でしか言わないような文化とでは、責任ある言葉という観点からは、もはや比べようもないくらい、遠いものとなっている。
英語を小学生から正式に学ばせ、国際化時代に備えるという。はたして、ハンバーガーを注文できるかどうかとか、自分の名前や趣味を伝えることができるかどうかとか、そんな英語を目指すことが、何の国際化なのであろうか。国際文化への知識と理解とが要求されてしかるべきではないだろうか。
アメリカの小学生たちは、様々な文化があることを学ぶように配慮されている。より公平な眼差しをもつことができるためには、こういう視点が大切である。
たしかに、アメリカ人もまた、錯誤する。アメリカがよいのではない。だが、情緒に左右されない視野は、こうした教科書の方が養うのに相応しいような気がする。少なくとも、日本人の誇りをもたせたいという目的で組まれた教科書よりは、この教科書のほうが、自国に誇りがもてるのではないかというふうに感じた。