『聖トマス・アクィナス』
G.K.チェスタトン
生地竹郎訳
ちくま学芸文庫
\1100+
2023.8.
1976年発行のチェスタトン著作集のものを文庫化したものだという。わざわざちくま学芸文庫にするというので、いくらか興味は沸いたものの、特別に買おうかという気持ちは、最初起こらなかった。だがさる方面からの情報で、著者のチェスタトンのことが書かれていた。あの「ブラウン神父」のチェスタトンだと? 無知というのは怖いものだ。アウグスティヌスとトマス・アクィナスについて、評判の書を書いている人だったのだ。
学者の著述ではなかった。だが、学術的な価値もあるのだという。読む人を楽しませ、しかも的確な眼差しでトマス・アクィナスを捉えているのだそうだ。もとより私はそれがどうだという判断を下す立場にはない。トマスについての本はちらほら見ていても、トマス自身の著作を読んだことはない。膨大な「神学大全」を読み通す勇気はないし、実のところさしたる興味もない。よく、トマス・アクィナスはアリストテレスとつながり、アウグスティヌスはプラトンとつながるというが、私はプラトンの著作なら邦訳は全部読んだ誌、アリストテレスは邦訳も限られている。なじむのはプラトンのほうだ。従って、アウグスティヌスのものはいくらか読んだ。「神の国」ですら、もちろん邦訳だが、読み通した。そういうわけで、トマスはどうしても疎遠だったのだ。本書の価値を定めることはできない。
だが、そんな素人の私にでも、少しばかり言えることがある。それは、本書が「面白い」ということだ。同じことを述べるのにも、比喩あり対比ありで、生き生きと語られているのである。つまり、文学者の作品となつていると思うのだ。
明確に断言する、というだけのことを言いたいのに「雷鳴のごとく大音声で」と持ち出すこともあれば、聖フランチェスコを「放浪する吟遊詩人」、聖ドミニコを「歩き回る不況社」などと、端的なキャッチフレーズで掲げることもある。聖トマスは、イエスが父ヨセフの仕事場で働いたころのように、アリストテレスの足跡を、一段と低い道を通って歩んだいた、というふうにも言う。読者の目の前に、生き生きとその活動の様子が見えてこないだろうか。
思考というものが陶酔させる力をもっているということについて、「飲酒よりも」という語をはさむだけで、読者はぎょっとするではないか。「トマスにとって十字架にかけられた人のひろげられた両手の間から声が聞こえてきた時、その腕は本当に広くひろげられており、全世界の門を輝かしく開いていたということであった」というのも、どうだろう。確かに何気ない文かもしれないが、私からは出てこない。私も様々思いの限りを綴っているけれども、その私からも、このような文は出てこない。もちろん私が凡人だからそうなのだ、ということでもあるのだが、本書の著者の選び持ち出す言葉は、ほんのちょっとした表現であっても、魔法のようにきらめいている。
確かに、殆どの場面では、きっかりと述べており、断言調で分かりやすい。学者的ではないということで、根拠を逐一掲げることはないが、背景には十分読み込んだことが窺えるし、多くの本を参考にしていることは当然伝わってくる。そしてその後の学者たちが、これはなかなか優れた著作である、と賞賛していることからも、信頼できるものとして受け取ることができるのだろう。たとえば日本では遠藤周作が、聖書やイエスについて独自の見解を書いている。なかなかの著作であり、聖書を自分の言葉で解釈し表現している。だが、その主張は、学問的にも信仰的にも、支持されているとは言い難い。遠藤個人の信仰がそれであることを否みはしないが、広く受け容れられるものではないだろう、という評価である。チェスタトンの場合は、そういうことではない、と思われるというわけである。
本書には、「解説」として、その道のプロである山本芳久氏が20頁近く、力のこもった文章を載せている。ジルソンの絶賛ではあるが、「これまで聖トマスについて書かれた最善の書物」だというところから始まっている。チェスタトンは、50歳を前にして、カトリックに改宗したという。そこから、アウグスティヌスとトマス・アクィナスについての著作を奉じたのだ。山本氏の表現によると「ユーモアと逆説に満ちたそ筆致」について、直接読んで味わってほしいというのだが、そう言いつつも、解説の大部分は、本書の概略を的確にまとめたものとなっている。手っ取り早く内容を知りたい方は、この最後の「解説」をまず見てみるのもひとつの道であろう。
それによると、チェスタトンの基本姿勢は、「トマスはキリスト教神学をアリストテレス的なものにすることによってこそ、それをよりキリスト教的なものにすることができた」ということであるという。そこで、トマスの神学や哲学を「アリストテレスの受洗」という言葉で挙げることもできるのだそうだ。なかなか洒落ているではないか。
抽象的なアイディアに逃げるのではなく、現にひとが人生で出会うもの、事柄、そうした事実と向き合い、そこに神からの恵みを知る。案外、私たちキリスト者が普通に感じていることを、トマス・アクィナスは根拠づけようと精力を使い果たしていたのかもしれない。50年も生きていなかったであろうトマスは、体格からしても病気にまみれていたのかもしれないが、一人の人間が著作できたことが信じられないほどの文章を遺している。パソコンのキーボードに打ち込んだのならいざ知らず、そうではない時代である。実のところ、それだけでも驚異であり、敬服せざるをえない人物でもあるだろう。
トマス・アクィナスの「神学大全」の抜粋が文庫で発売されている。今度はそれを楽しませてもらおうと思っている。本書はそのための、よい導入となった。

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