本

『スプートニクの恋人』

ホンとの本

『スプートニクの恋人』
村上春樹
講談社文庫
\571+
2001.4.

 単行本としては1999年4月に刊行されている。従って村上春樹ものとしては中期にあたる、などと言えば失礼だろうか。初期のモチーフを保ちつつ文字を塗り重ねているよいところではないだろうか。
 スプートニクという、ソ連の実在の人工衛星の名前を恋人に当てはめるというイメージをぶつけてくるし、それはあっさりと最初のほうで果たしている。村上にしては、いたってノーマルな恋愛物語を呈しているように見える。主人公の男が、自分が好きだという感情をもつことを前提にしているのは、私の知る中では珍しい感じがする。
 しかし、その恋愛感情をもつ相手の女性は、年上の女性のことを好きだという。肉体的欲望も覚えている。相手のその女性は彼女のことに好意をもってはいるものの、ある事情があって性欲は感じない。こうして奇妙な三角関係が成り立ち、また欲望的にも錯綜している。これだけでかなり面白いのは確かだ。
 そのくせ、主人公の男は、彼女の親友のように相談に乗ったり頻繁に会ったりするものの、別の女生徒行きずりの関係をもったり、教諭として勤める中で児童の母親と「おともだち」であったりする。世間というのはそんなものなのか、それともあまりに軽薄な設定なのか分からないが、好きな人との関係というものが、もう私たちの思い描くものではなくなってしまっているのだろうか。村上春樹自身私より年上であるから、彼が描く世界が私より新しいというところにまでは行っていないような気がするのであるが、道徳的な基準は何も分からないと言わざるをえない。
 そのくせ、「ぼく」は、何が「正しい」のかということに時折言い触れることがあり、正さというものについて一定の観念はあるように見受けられる。このあたり、必ずしも論理的でもないし、倫理的でもない。だからこその文学であるのだろうが、ストーリー的にも、いつもの村上らしく、と言えばよいのか、まとまった筋道があるというようには見えず、思いつきでただ流れていく感じもする。伏線があって回収がある、などということもなく、しかしそれが却って現実の物語であるというようなリアルさを表している、と言うこともできるかもしれないし、終わりがまたこれで終わりなのかというのも、いくらか村上文学を見ていると慣れてくる。
 それでも、リアルさと言いながらも、女性が途中で行方不明になり、大騒ぎになった後、それは良い方向に向かうことで物語としては幕を閉じるのだが、そこで解決したのは、「ぼく」の思いくらいのもので、いったい何がどうしかのか、謎が分かったというわけでもない。リアルさとは言ったが、甚だ頼りないリアルさである。つまり、不思議な出来事があまりに多いのである。特に、年上の女性の過去の話は、村上らしい少しどぎつい描写があるのだが、一体何だったのか、決して説明されているとは言えないだろう。
 スッキリはしない。だが、それだからまた、読んでよいものであるという納得はあるのだ。そして、ほかのも読んでみたいと思うようになる、やみつきの味を残していくのだ。
 例によって、文字により音楽を届け、味を思わせる、これもまた魅力である。視覚的には、必ずしも情報は多くはない。会話は粋である。最後のほうの警備員のように、嫌な役どころのキャラクターのほうが、至極全うなことを述べているのであるが、それがどこか鬱陶しく見えてくるのは何故だろう。私たちの中に、潜在的にでも、「正論」というものに対して、胡散臭いものを感じる気持があるからではないだろうか。そうなると、いかにもスッキリするストーリーの物語というのは、「正しい」ものでもないし、胡散臭いものであるというふうに捉えるべきなのではないかと思われる。村上春樹のストーリーは、もっと何か違うんじゃないの、という私たちの中にある本音の部分を、それでいいから進んでごらん、と励ましてくれているような気がしてならない。だから、やみつきになるのかもしれない。




Takapan
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