本

『スピノザ――読む人の肖像』

ホンとの本

『スピノザ――読む人の肖像』
國分功一郎
岩波新書1944
\1280+
2022.10.

 著者の想い入れの深い本となったようだ。修士論文で扱ったときに懐いていたイメージを、20年越しに実現したというものらしい。つまり、スピノザについて「読む人」というアングルからアプローチするのである。
 それがどういう意味であるのかは、読んでからのお楽しみとしておこう。
 驚くのは、岩波新書で1280円+税という価格。手に取ってみると400頁を超えている。薄い岩波新書の2倍の量である。その意味では、価格は安く設定されているとすべきだろうか。
 スピノザ1人に、これだけ注ぎ込んで語る内容があるのか、などとは言わないで戴きたい。思想家について説くためには、どれほど分量があっても足りないくらいなのだ。本書も、スピノザという人間を紹介しながら、代表作『エチカ』だけで、普通の新書の量くらいを費やし、その他の著書を手早く扱いながらも、スピノザの生きた時代と環境から、現代にも生かされるべき考えに至るまで、本当に著者の想いをこれだけに抑えるのでさえ大変だっただろうというような内容なのである。
 スピノザとくれば、やはりデカルトという基盤があってこその思想家であるという印象がある。デカルトを反面教師として、思索を紡いでいたと言っても過言ではないであろう。すでにここで「読む人」が始まっているが、どうやら近年スピノザが注目されているのも、この対デカルトという要因が関わっているのかもしれない、と私のような素人は思う。というのは、デカルトの思想は、なんだかんだ言いながら、西欧近代の世界観のベースになってきたと言え、近代科学の基礎にもなったと捉えることができるが、それに対抗したスピノザは、近代世界観の裏側に完全に回り、スピノザ哲学そのものが顧みられることがなかった。だが、近代の行き詰まりからその思考が批判されるようになると、今度はスピノザの思想に関心が向くというのは、大いにありうることだからである。
 著者は、そのスピノザについて、特にその『ヘブライ語文法綱要』を紹介するという点で、非常に良い仕事をしていると思う。というのは、『中動態の世界 意志と責任の考古学』という本の中で、中動態について独自の見解を示すにあたり、このスピノザの書をも引用していたからである。それはここでも、スピノザの意義を説く中で、取り上げられている。そもそも、哲学者が喜んで文法書を書いたということは、実に異様なことではないだろうか。そこへ注目すべき余地が、これまでも十分あったはずだが、著者のこの視点は、そのような意味をも明らかにしているように見える。
 もちろん、それだけではない。『知性改造論』にも触れる。しかし、『神学・政治論』が、今回ひとつの鍵を握る本として取り上げられている。それは、ただ本に何が書いてあるか、ということではなく、執筆時期の問題である。この本は、『エチカ』の執筆を一時中断して書かれているからである。どうやらスピノザは、並行して書を記すというタイプではなかったのではないか、と著者は推測する。事実そのように執筆活動はなされている。では何故大部として自ら体系構築のためにも重視したであろう『エチカ』を放り出すようにして、『神学・政治論』を執筆したのか。その細かな点は本書をどうぞお読み戴きたい。
 だがそれにしても、その出版後に、とてつもない虐殺事件が起き、そのせいかどうか、スピノザは『エチカ』の出版を諦めるということになったのだから、当時の群衆による思想的暴力というものは、歴史を変える暴力となってしまうということを、私たちは知らされることになる。これは今でもそうだと思う。群衆が暴力的に、何かを押さえこんでいるということを、当の群衆は気づかず、自ら正義だと信じて止まないのである。繰り返すが、これは今も起こっていることである。起こしていることである。
 本を書くというのは、当時の時代背景と、執筆者の置かれた情況などが複雑に絡み合って決定される。たんに本に書かれた内容だけで決まるものではない。著者はそうしたことを総合的に捉えて、ひとつの筋道に従って本書の中でスピノザを追いかける。この辺り、なかなかスリリングでもある。
 『神学・政治論』は、どちらかというと聖書について説き明かすような印象がある。その聖書についての見解は、当時の社会では勇気の要ることであったはずだ。事実、スピノザは、ユダヤ人としてラビになる訓練を十分に受けながら、二十代にてユダヤ教から破門されている。
 それをなんとか出版できたのは、よかったかもしれない。だが、スピノザ存命の間に出版されたのは、それが最後であった。絶筆となったものとして、著者は『国家論』を紹介する。その最後は「民主主義」で途絶えているが、果たしてそれは命尽きたからであるのか、それともスピノザは民主主義に問題を見出していたがために筆を進めることができなかったのか。そんなところを著者は謎めいて問う。そう、民主主義は現代においてバイブルであり神となっている。しかしそれはデカルトに基づいた近代思想の行き着いたひとつの頂上である。だがプラトンから見れば民主制は愚衆政治であった。いままた、何らかの問題がそこに含まれていることを指摘する思想家もいる。スピノザは、17世紀の人であるが、実は十分新しい人と見るべきであり、また、その本は確かに現在読み直す必要のある本であると言えるのだろう。
 著者は、日本におけるスピノザの翻訳のために尽力した、畠中尚志氏へ、最大限の敬意を払っている。お会いしたことがないにも拘わらず、師と仰ぎ、本書を捧げるとまで口にする。畠中氏は、自らの本を世に問うことを一度もしなかったという。しかしその翻訳が、スピノザの思想を日本に伝えるためにどれほど重要出会ったか、計り知れないと言う。
 何らかの形で、畠中氏の業績を世に知らせることを、これからやりたい、と「後書き」で記しているが、早速本書出版の2か月後に、『畠中尚志全文集』が出版される。もちろん、著者はそれに拘わっており、「解説」を執筆しているようだ。これも楽しみである。




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