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『スピノザの世界』

ホンとの本

『スピノザの世界』
上野修
講談社現代新書1783
\760+
2005.4.

 スピノザは文字通り読んでも、つながってこない。同じ語を使いながら、定義が異なるからだ。もちろんその定義をそのまま受け容れていけば読めるはずなのだが、私のような者にはどうしても先入観がある。学生時代に演習があったが、いったいそれは何なのか、不思議な感覚の世界にいるような気がずっとしていた。
 在野の哲学者、というよりも、当時哲学者は在野であった。レンズ磨きの姿ばかりが頭に浮かんでくるが、それよりも問題は、ユダヤ人として放逐されたその異端的な神観であろう。確かに「神」という語は使う。しかし、その「神」たるや、人格などない。まして汎神論とも言われるが、私たちがその「神」に包まれてのみ存在しているなどと言われても、いったい何を言っているのか、イメージで掴むことが難しい。
 だから、本書のような解説が貴重なのである。学生時代にこの本を読んでいたら、私はもう少しましな理解ができていたのかもしれない。いや、それだけではないだろう。その頃は信仰を知らなかったから、本書だけでは不十分であっただろう。信仰の眼差しで見るとき、それも少しばかりひねた見方ができる信じ方をしているようであると、スピノザがかなり近いところに来てくれているように感じるのである。  タイトルは「スピノザの世界」、そして副題に「神あるいは自然」という謎の言葉が付けてある。だが結局、これが効いてくる。この世界、それが神にほかならないからである。
 本書は『エチカ』に的を絞る。そしてそれが5部に分かれていることから、解説もその5部に沿って動いていく。時に実例を入れ、時に歴史的背景や想定している哲学者を明ながら進むので、非常に理解しやすい。こんな解説ができたらいいなと憧れてしまいそうである。「幾何学的秩序で証明された」というのがこの『エチカ』には形容が付随しているため、ユークリッド幾何学の記述を模倣しているのは間違いないが、だから分かるだろうと高をくくると失敗する。時代も背景も、また考えの枠組みも、カント以降の私たちとは違うのである。どこをどう掃除して、見る角度を換えればよいのか、そのコツみたいなものが欲しい。本書はその痒いところをよく気づいて助けてくれていると思う。
 スピノザは人間の意見に頓着せず、すべてを事物の側から見ていた。このような指摘だけでも、スピノザを誤解なく読むための適切なアドバイスとなる。スピノザの見ていた世界を共有したいというのが、読者の願いであったはずである。そのために、比較的薄いこの案内は、本当によい案内となることだろう。
 中途半端な理解しかしていないと、「コナトゥス」とか「永遠の相の下に」とか、哲学史に出て来るような用語の解説を書けば解説になるかのように安易に考えがちなのであるが、その点これは違う。スピノザの立っているところ、見ている地平を、いまの私たちとどのように違うのか、じっくりと私たちを連れて行ってくれる。これはよくよくスピノザを読み込み、様々な経験をしていないとできないことである。
 また、日本語で考えることの限界もスピノザの場合には特に顕著であるようだ。そのラテン語は、いま普通に訳すとなると、いかにも近代哲学の用語のようにしかならないのだが、たとえば「真」という語は事物の性質ではなく、「語り」について言われる語であった、というような背景を教えてくれるのも魅力である。そこから語りとしての観念と事実との一致において真理性が問われていたのである。
 結局、この世界は真理である。私たちもまた、その真理なる世界の一部である。この「一部」であるというのは、近代思想が忘却していった重要な立場であるだろう。
 それにしても、79頁にある、「エチカ」の定理の証明の導出関係の矢印の賑やかなこと、ここでお見せできないのが残念だが、定理の番号の書かれてた小さな楕円から縦横に矢印が出ていて、どれを用いてどの定理を証明しているか、説明しているかをまとめあげた図表である。これは読み込むときにはきっと大いに参考になるだろう。
 スピノザは自由意志を否定している。これも、他の近代哲学が当然のように掲げる自由とはまるで異なる。そもそも古代ギリシアでは「意志」という私たちには自明な概念がなかった。私たちは「自由」は「意志」を自然に修飾するものだと思い込んでいるのではないのか。そんな反省も取り扱う暇がないほどに、本書はスピノザの説き明かしという謎解きの中で私たちを導くことに忙しい。
 この自由意志とも関係するが、スピノザが「ゆるし」ということを大きく捉えているという指摘は肯けるところが多かった。自由意志があるから責任があり、その責任ある者が冒したことが頭に来てゆるせなくなる、それが人の常である。スピノザは自らの心の平安も図るし、そのために神という世界の中に浸るのであろうが、他方他人のことにもカリカリせず、だから人を責めて自分だけが正義になろうとするようなことからも私たちを解き放つ。自ら徳に従う平和な考え方をとる限り、他人もその考え方をもつようになってもらわないかどうか、望むのである。
 他人への不足や不満を言うばかりでは、ゆるしもないし、平安もない。敬虔な生き方、正義についての正しい態度が必要である。そのような捉え方は、最後にいよいよ「永遠」についての記述に入るときに読者は心得ておかねばならないわけだが、ここで著者は、十分に根回しする。スピノザの口調が変化するから、そのままさらりと読むと混乱するのだという。スタンスを換える必要があるから、そのために丁寧だがもしかすると少しうざく感じるかもしれないような、準備を施す。
 いま喜びが与えられているならば、それは神を愛しているという正にそのことであり、すでにいまここに永遠があるということにつながるのである。スピノザは「永遠」について、「それ以外ではありえない仕方で出てくることそのもの」であるように告げているのだという。必然的に定義から出てくる存在そのもののことなのだ、というふうに述べられても私たちは戸惑うであろうが、本書は良きガイドとしてこの事情を説き明かしてくれる。その永遠は、いまここにあるものなのだ。
 イエスの「神の国」もそれに近いかもしれない。そして新約聖書がよく言う「永遠の命」も、この捉え方は共感できるはずである。もちろんスピノザの「神」の人格的交流のなさは、聖書の神と同じであるとは言えないし、そこから聖書の「永遠の命」が現れるはずはないのであるが、私がまたとないユニークな一人としてここにいる、それがすでに永遠なのだという捉え方をしてみるのは、少し心揺さぶられるような気がする。「神」の中に安住できるその安らぎが、すでに永遠を実現しているとなると、これはこれでスピノザの福音となるのであろうか。そしてだからこそ、『エチカ』すなわちいま「倫理学」としか訳せないような言葉で、スピノザはここまで歩いてきたとも言えるであろう。
 それにしても、「猫だの台風だの戦争だの」と、常々この三つの例が取り上げられ、その都度スピノザの言おうとしていることを分かりやすく教えてくれる。このワンパターンが少しばかりくすぐったく笑わせてもくれ、読者をリラックスさせてくれるのも、本書の隠れた魅力ではないかと私は見たが、どうだろうか。




Takapan
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