本

『愛とパンと自由を ソレンチナーメの農民による福音書』

ホンとの本

『愛とパンと自由を ソレンチナーメの農民による福音書』
E・カルデナル
伊藤紀久代訳
新教出版社
\2000
1982.8.

 中南米の細い土地に並ぶ国を、北から凡そ並べると、メキシコ・グァテマラ・エルサルバドル・ホンジュラス・そしてニカラグア・コスタリカ・パナマから南米のコロンビアに入る。この列のほぼ中央に位置するニカラグアの大きな湖の中に浮かぶ島々の地を、ソレンチナーメと言うのだそうだ。ここに、40歳の神父が派遣されてきた。1966年のことである。そのころその地の農民たちは、ソモサ家の独裁制による搾取に喘ぎ、富裕層に対する批判が、いつ革命として勃発してもおかしくない状態だった。この後、1972年の地震に対する政府の対応に対してついにそれが実際の大きな行動となってゆく。
 カルデナル神父は、必ずしもカトリックの当時の状態に満足はしていなかったが、静かな心の平安を教会の働きを通じて届けるつもりではあった。そのミサの間やその他いろいろな機会に、教会員との対話を続けていたところ、その内容が実に活発で意義あるものであることに気づき、そのうち録音して内容を遺すことにした。それがまとめられた、というのが本書の成立事情である。
 農民たちの殆どは文字が自由に読めず、聖書を印刷しても分からない。素朴な信仰をもっていると言えるが、それは神父の話、教会生活を通じてである。だが、本書を読む限り、聖書に真摯に向き合い、神の言葉を受け止め、そして神の言葉が生きて働くという様子を強く感じるばかりだった。なんと言葉が生きているのか、生活に、生き方に、それが力を与えていくものか、逆に羨ましいくらいのものとして見えた。  ソレンチナーメ諸島は38の島々から成り、いくつかの島に人が住む。当時90家族で、千人ほどの人々がいたというから、一家族は大きい。もちろんこの対話に入ってくる人物は限られているが、おもな参加者の紹介もされていて、親切な冒頭である。そして、これらの対話は、聖霊により与えられて言葉となったものである、と告げる。私も、そのように受け止めたい。
 本書は、その対話記録のうちのごくわずかである。つまり多くの資料があるらしいため、何冊にもなるという事情のため、ある意味で抜粋ということになるが、そもそもが聖書各所の短い箇所について少しずつ読み上げ、それについての感想を発し合うというものであるから、一話完結であるし、いくらでも続けることができるのである。こうしてその様子を知ることができて、私はとてもうれしい。なぜなら、研究と推敲を経た結果的な原稿ばかりの書物が普通であるのに、これはその場である意味で衝動的に口を突いて出たことも記録されている。そう、教会でも、聖書を囲んで自由に感想や意見を語り合うという場があることが多いが、実に楽しいものである。まとまった考えでなくても、ふと思ったことを言うと、それへの思わぬ賛同があったり、付け加えてその考えがより発展したり、基礎づけられたりすることがある。互いに考えを出すことで、より一層自分の考えていることが明確になるということもしばしばである。要するに対話であるから、ひとりの中で考える限界が、容易に超えられるのである。だからまた、ひとりの思い込みに留まらず、新しいことに皆で気づかされるということも起こりうる。神父がいるから、よほど誤ったことを信じようとしていたならば、修正もされよう。だが神父が修正のようなことをすることは殆どなかったように見た。それぞれの人が、自分なりに聖書の言葉を、素直に真正面から受け止めていることがよく伝わってきたからである。
 たぶん対話の時間が決まっているのだろう。毎回、そう大きく変わらない頁数のもとで、福音書から短いペリコーペが選ばれる。少しずつ読まれ、自由に感想が飛ぶ。全体的に、やはり金持ちや権力者に対する不満が多い。だがそれを、聖書でイエスが彼らを批判していることときっちり重ね合わせているから、感情的になっていくことはない。聖書を信じていれば、報われるという希望と、むやみに暴力を振るうものではないという姿勢は貫かれている。
 原題も日本語訳の通りで、「福音書」という言葉が掲げられている。福音書の解釈についての自由な発言を集めたら、このようになる、というようなものを見ることができる。しかも当事者は貧しい農民である。だが、金品はなく、搾取されているという実際であるにしても、贅沢とは関係なく、生活に必要なものは与えられている、という実感がある。それをまさにイエスが提示する教えのとおりのものとして受け止め、神を喜んでいる声が次々と聞かれる。そしてイエスが、威張っている者をやりこめる場面では拍手喝采が起こるかのように、皆の発言の勢いが増す。果たして私はその搾取する側にいるのではないかという点をいつしか忘れて、私も拍手を贈りたくなってくる。
 カトリックであるから、マリアの位置は相対的に高い。だが、対話を聞く限り、バランスはとれているし、とにかく弱者を神が助けるということへの信頼については、揺るぎないものがある。妙に知識が加わり、自由主義神学だとか、聖書は実はこういう仕組みなのだとかいうような、ある種の不純なものがないだけに、聖書を実に素直に理解し、神を信じている。だからやはり、むしろ羨ましいという気がする。
 そう。私たちは、彼らの言う「金持ち」の部類に違いないのだ。そうすると、急に恐ろしくなってくるかもしれない。彼らが盛り立てるように、そうした金持ちを神は滅ぼすんだという声が、私を責めてくるからである。いや、本当にそのように聖書は読むべきなのだ。自分はいつでも弱い者、正しい者であるかのように、信者は思い込んでいく性質がある。だがそれは確かに間違っている。その読み方を教えてもらえるとなると、本書が日本で読まれることの意義は、見かけよりずっと大きいものがあると思う。
 非暴力主義と言ってよかったカルデナルは、その後、農民の状態と政府の独裁などを体験して、暴力を伴う革命をも肯定する考えに傾いていく。政府はソレンチナーメを攻撃し、壊滅させる。彼らの味方であることをすでに表明していたカルデナル神父は、政府から逮捕命令が出されたことで、隣国コスタリカに亡命していた。1977年のことであった。カトリック教会も当時は、政治に関わることをよしとしなかったはずである。ずいぶん後になってようやく、カトリックはカルデナルを認める発言をしている。
 1925年生まれのエルネスト・カルデナル神父は、2020年3月、長寿を全うして旅立った。




Takapan
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