『シーシュポスの神話』
カミュ
清水徹訳
新潮文庫
\550+
1969.7.
タイトルにある「シーシュポスの神話」というのは、神の怒りを買ったシーシュポスに与えられた刑罰は、大きな岩を麓から山頂へ転がし運ぶというものだった。だがせっかく昇らせた岩が、たちまち転がり落ちてしまう。そのため、また下へ降りて、再び岩を昇らせなければならない。このことをいつまでも繰り返すことになるのである。
どうお思いだろうか。無駄なことだ、生産性がない、と見下すだろうか。それとも、それは人間の、否自分の人生のことを言われているのだ、と痛感するだろうか。
もちろんギリシア神話としては、人間の人生を描いたつもりなのだろう。神々というキャラクターを用いて、人間の様々な面を描いた点では、旧約聖書の人物描写にも匹敵すると言えよう。
さて、カミュである。不条理の文学という呼び名で片付けてよいとは思えないが、なんといっても『異邦人』が与える鮮烈な印象は、人類に与える叡智のひとつとして申し分ないだろう。ノーベル文学賞を受けたのも異論はあるまい。自動車事故のために46歳で没したのはもったいない。
しかしカミュの名を近年広く知らしめたのは、『ペスト』ではあるまいか。新型コロナウイルス感染症が蔓延し、パンデミックを惹き起こしたとき、都市封鎖すら現実的になり、ヨーロッパでは黒死病とも恐れられ大陸の人口を大幅に減らされた感染症が思い起こされた。かつて幾度か流行したものだが、これについては文学的に描いたものがきっと多々ある。しかしカミュは、史実云々はさておき、そこに人間ドラマを描いた。2020年以降、かなり売れて読まれた。私もその一人である。
さて、そのカミュが書いたエッセイのようなものが本書である。エッセイと呼ぶには、かなり論じたような形になっており、しかし論文にしてはやはり文学的な主張や書きぶりが窺える。哲学的であるかもしれないが、これは哲学とは言いにくい。
徹底的に「不条理」について述べたものである。四つの章からできており、不条理の推論」「不条理な人間」「不条理な創造」そして「シーシュポスの神話」と名付けられている。
ここにあるのは「哲学のあつかうべき問題は自殺についてのみだ」という、挑戦的な言葉である。自殺について考え抜いた一人でもある故に、それは表面的なものでもないし、ただ死ねばよいという程度のものでもない。私たちが普通に示す「自殺」しか道がないように思える切羽詰まった心理にある人がいるかもしれない。しかし、理屈をこねて正当化するようなことをすべきではない。世界に絶望したかもしれないが、世界はそんなに偉いものではないのだ。世界に、そんなに偉そうな意味があるのだろうか。
いやいや、自殺を封じるには、哲学が、形而上学があるではないか、あるいは、宗教があるではないか。そんなふうに言いたくなる人がいるかもしれない。だが、哲学を慕って真摯に求めたところで、そこに何があるというのか。私にはこれがよく分かる。では宗教はどうか。私はキリストと出会って、そこから救われた。だが、カミュは普通の「信仰」に縋るつもりはない。その気持ちも、私は分からないではない。結局キリスト教組織は、「教会を信じなさい」「教会に従いなさい」が言いたくなるのだ。そしてそれを根に持ち、表向きだけ聞こえのよい言葉を並べているのは、極めて人間臭い者たちばかりなのだ。何の体験も実感もなく、口先だけで体のいい理屈をなんとか話せば給料が貰えて、「先生」と慕われる仕事は、味を占めたら辞められない。世の中の「先生」と呼ばれる仕事には、そのような麻薬成分が入っている、とも言われる。カミュのみならず、教会のあり方に批判的だった哲学者は少なくない。信仰者であっても、そのようにした人が多々あるほどである。
カミュが何を言っているのか。それをどう解釈するのか。それは、読者一人ひとりに委ねられている。但し、カミュの結論的な言明はこれである。「いまや、シーシュポスは幸福なのだと想わねばならぬ。」これが結びの言葉であり、カミュがこの論考で行き着いたところである。「ならぬ」というのは、そう思い込む必要がある、という意味ではない。「想うのが当然である」と言っているのである。罰を与えたほうは、この不条理の故にシーシュポスは不幸なのだ、とせせら笑いたかったのだろう。また、世間の殆どの人間もまた、そのような怒号を浴びせる側にいるだろう。だが、十字架のキリストへの怒号は、その後キリストの勝利の故に罪の重みとなってのしかかっていった。幸福は、不条理と人々が口にするところにこそあるのだ。
この結論へ行くための道案内であったはずの、先の三つのタイトルに基づく文章だったはずである。ようやく最後になってそれを知った読者は、もう一度初めからカミュの見ていたものを、その意図と共に理解するために、読み直すとよいのだ。このことを、巻末に掲載された「フランツ・カフカの作品における希望と不条理」という文章の中で、カミュが、カフカの文章は再読を強いる、というところから始めていたところがあった。カミュの文章も、再読すると、少し違う景色か見えてくるのかもしれない。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド