『ジンメル・コレクション』
ゲオルク・ジンメル
北川東子編訳・鈴木直訳
ちくま学芸文庫
\1200+
1999.1.
ジンメルは、19世紀半ばから第一次大戦末までの時代を生きた哲学者である。ベルリンのユダヤ人の家に生まれ、哲学者と呼ばれる中では、芸術にたいへん詳しい人物として知られる。大著『貨幣の哲学』が知られるが、本書にも、貨幣に関する考察が含まれている。
本書は、小編集である。しかも、この文庫のために訳されたり、編集されたりしたものであって、単行本の小型化というわけではない。どこからどのように読んでもよいように集められているというが、やはり編集者の意図を汲んで、最初から読み進んでみてはどうだろう。
まずは、愛や女性についての考察がある。特に「売春」を話題にするところが、独自であると言ってもよいだろう。それがいったい哲学になるのか、と訝しく思うのが、一般の思想家であろう。だが、何かしら思索の対象を制限して、差し障りのないことについて雄弁に述べたところで、果たして考え尽くしたことに、なりうるであろうか。そこに光を当てたことは、十分価値があることだと思う。
ひとつには、貨幣という交換手段によって、性を扱うことが問われなければならないであろう。それは、非常に現代的な視野である。貨幣というものがあることにより、生の体験や出会いではなく、手段的な交流が可能になってゆく。ジンメルの眼差しの向かうところはそういうところだろう。だが、この小論には「覚え書き」という言葉が付加されている。必ずしも完成した議論ではないということだ。それで、後半は、婚姻制度があることにより、売春は存在するのだ、という発言を重く呈することになる。完全な自由恋愛があれば、売春は成立する余地がない、というのである。あまりにも逆説すぎるように戸惑うが、感情的なものを交えず論理的に考えるならば、確かにそうである。制度上許されないからこそ、貨幣を媒介とする結びつきが生ずるのであって、そもそも婚姻という概念がなかったら、貨幣が間に入る余地がなくなるのだ。また、売春婦が罰されるという現実の中に、男たちのために懲らしめを受けているのだ、という視点を提供もしているが、こうした点がいまだに蔑ろにされているのではないか、と思えるほど、時代は進んでいないことを迫られる。
そこばかりに留まっていることはできない。「取っ手」あってこその容器という観点から、ひたすら「取っ手」に焦点を当てて思索するなど、読んでいてもただ唸るばかりであったし、「橋と扉」は、どうしてこの二つが対比されるのが、普通は見当もつかないだろう。橋は、川という自然が分離させた陸と陸とを、人間が結合させるためにつくったものであるが、扉は、そもそも家という、外界から分離を図って人間がつくったものにおいて、やはり自然外界へと開かれるものが必要だというもので、これまた人間が、扉というものをつくったのだ、というのである。扉を開いて世界へと通じることには、一種の戸惑いさえ覚えるであろうが、開かれた世界へと通じることを選ぶからには、そこに自由な世界への可能性があるという指摘には、なんだか希望のようなものを感じることができるだろう。
同様に、「額縁」という考察においては、額縁が芸術を、その外部の世界との間に明確な境界を置くものであり、不可欠だというその意味について述べていく。その額物の内部において、統一があり、完成しているというのだそうである。
その他、「肖像画」とは何か、「俳優」とはどういうことか、など興味深い議論が多数並ぶ。終わりの部には、社会主義が大きな関心となっていた時代らしい論文のほか、「よそ者」という際立ったテーマも目立つが、これは、ユダヤ人として自身が見られていたことと、恐らく深い関係があるものであろう。
最後には、貨幣論のごくわずかな部分が語られているが、それは、特に中世と近代とを分かつ変化を指摘するようになっている。人間の関係が、非人格的になることを、しっかりと見据えることが求められるのだ。貨幣はあらゆるものを実現するためのものでもあり、新たな時代では、神ともなったのだと見るのである。
私たちが現代において何かを考えようとするときに、押さえておきたいことがたくさん詰まっている。これは手近なところに置いておき、何かと問いかけていって損はないように思える。巻末の解説も複数あって、充実している。まさに、よいコレクションであると言えるだろう。

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