本

『山上の説教』

ホンとの本

『山上の説教』
E.シュヴァイツァー
青野太潮・片山寛訳
教文館
\2000+
1989.2.

 聖書の研究シリーズの中の一冊である。NTDという聖書注解のシリーズがあるのだが、それはマタイによる福音書一冊だけ取り上げてもなかなかの大部である。その中で、有名な「山上の説教」の部分だけを取り出して、手に取りやすい本として発行できないか、出版社が著者に打診してきたそうである。若干の配慮はしたものの、基本的にほぼその形で、独立させることに著者も賛意を示した結果が、本書である。日本語訳ではこれだけでも250頁近く必要だった。実に充実した注解であると言えるだろう。
 注解であるから、マタイによる福音書の5章から順に本文を辿ることは当然である。そうして7章の終わりまでを綴れば、注解書としては十分であろう。しかし、著者がどういう態度をとってこの福音書を読んでいるか、そういう人間味あるところが十分に味わえる、と言うと失礼だろうか。時に幾つかの解釈説を挙げ、そのうちどれが望ましいか、著者の観点で計っていく。もちろん、それが唯一正しいかどうかは分からない。だが、ともかく本書の注解は、そのギアで走行していくことにしている。私はそれでいいと思う。自分の立場を隠して、それとなく読者を誘導するような仕組みにはせず、堂々と、こういう姿勢で理解するために、このように説明する、という成り行きが明確にされていることで、読者に対して親切になるものであろうと思われるのだ。
 これは注解書である。それを逐一ここで紹介するわけにはゆかない。どうぞ必要に応じて利用されたらいい。しかしまた、私のようにとりあえず通読するという楽しみもある。山上の説教について辿っていくための読み物として食い下がることもできる。調べたいところだけ辞書のように開くばかりが注解書ではない。
 ただ、聖書にはこのように書いてある、とか、こういう説がある、とかいうふうにただ淡々と説明するような本でしかないのであれば、本当にそれはただの辞書になってしまう。辞書はひたすら読むのは退屈なのだ。どうして本書は通読してもわくわくするのか。それは、この注解書自身が、私たち読者に何か告げたいメッセージをもっているからだ。そして、それは聖書という書物の言葉を、私たちに生きた言葉として伝えようとする熱意からくるものではないかと私は直感した。これはあなたへのメッセージである、あなたはこの言葉を聞いてどうするのか、そんな問いかけとして本書の言葉が読む私に迫ってくるような気がしたのである。
 たとえばマタイ6:34「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」について、こんなふうな部分がある。「……信仰の生というものは、人間が翌日のための心配から解放されて安心してこの日と取り組み、この日を生きることをゆるされているという形でこそ現実化されるのだ……」これを聞くと、信仰への勇気が与えられないだろうか。また、最後のまとめのような箇所では、「教会は山上の説教によってそのあらゆる層において、信仰へと呼びかけられている」とか「教会は、祈ることへと、そしてそしてさしあたっては待つことと聞くことへと呼びかけられている」とか書かれると、教会はチャレンジを受けないだろうか。この時、実はヒトラーを思い起こし、核戦争などの危機の時代に備える強い決意を述べていたのである。
 最後の最後のところで、イエスが私たちに何を期待しているのだろうと考えさせるメッセージを私は受けた。そこにはこのような部分がある。「……人が神のために自由になり、それによって同時に、自分を必要としている人間のために自由になる……」なんと深い、そして知識としてばかりでなく知恵として、そして行動を促す力ある言葉として、迫ってくるものではないか。
 これはただの注解書ではない。




Takapan
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