本

『シャーデンフロイデ』

ホンとの本

『シャーデンフロイデ』
中野信子
幻冬舎新書480
\760+
2018.1.

 シャーデンフロイデとは、ドイツ語の用語で、ぶっちゃけ言えば「他人の不幸は蜜の味」ということである。そういう心理が人間にはあるものだということは、昔から言われていたが、その現象の紹介と共に、それが脳科学的に説明できる、というのが本書の根幹である。
 認知科学者というようにも紹介されるようだが、著者は脳科学者という立場の表明のほうが相応しいのではないかと思う。分かりやすい解説の新書などで、近年よく知られ、よく本も読まれている。一読して言おうとしていることは伝わるし、ストレートで説得力もある。
 サブタイトルは「他人を引きずり下ろす快感」と付いており、「シャーデンフロイデ」という語と並んでいる。注意すべきは、この「シャーデンフロイデ」は、自分が何か手を加えて他人が失敗したり不幸になったりすることではない、ということだ。本来、自分とは無関係に、他人が何かしらよくないことになったときに、それについて喜びを覚えるということである。だから「他人を引きずり下ろす快感」という意味ではないはずである。この二つが並んでいるところを、気に留めつつ読み進めるべきである。
 その「まえがき」からして読者を引き込む。「人間性」という言葉で良いものを想定しがちだが、そこに疑問をもつべきだという形で本書の扉を開かせるのである。「愛」や「正義」が麻薬のように働いて誰かを攻撃できるようにしてしまうこと。これが、本書が開かしていく人間性の一つなのである。私は、基本的にそのスタンスには賛同する。
 しかし私のようにひとの心をただ考えさせようとするのではなく、そこは脳科学者、脳物質に還元した説明を用意している。まず、「フロイデ」つまり喜びの方である。この喜びをもたらす物質は「オキシトシン」であるとすぐに持ち出す。そして人間心理の様々な側面を示して、すべてこのオキシトシンがもたらしているという形で、理解の前提を作ってゆく。
 やがて、正義感がひとを裁くようになっていく例を並べ、心理学的な実験や社会現象、時に生物学的な選択のようなところにまで、各種のカードを配ることで、脳内物質的な解釈が通用するということを説得してゆく。ところが物質で説明をすると、文化的あるいは民族的な相違というものがどうなるのか、気になるところだ。たとえば日本人は個人よりも社会を重んじるという点について、著者は、日本人にはセロトニンが少ないせいだ、と説明する。新書と紙数の制約があるだろうが、少しばかりデータを示して欲しかった。脳科学者の語る科学知識だからその通り根拠があるのだろうという見通しで、読者はすいすいとそれに乗せられていくように順路ができているように感じられる。先のオキシトシンがどのように作用しているのか、それもやはりズバリ言い切ってそれで終わりなので、ワイドショーのコメンテーターの論破の延長のような錯覚を起こしてしまいそうになる。
 有名なミルグラムの実験に始まり、同類のいくつかの実験をも短く持ち出して、多くの証拠を挙げてくるように見えるが、この辺りから一層強く「倫理」「正義」といった自分の意識が、他人を「悪」と断定するようになり、「どんな残酷なことでもできる」ようにいつの間にか変わっていくという現象を明らかにしようと筆が進む。雑誌のように、いろいろな記事を次々と見せられてゆくし、時に常識でも分かることだというような例も混ぜられているので、読者はやはり、いろいろな実例があるから確かにその通りだ、と思うようになるだろう。
 このとき、ドーパミンという物質もこの説明に加担している。他人からの承認はドーパミンに基づく非常に強い快感を与える、というのだ。それは「正義中毒」をももたらすだろうという。一部、自己愛が異常に激しい人物が、シャーデンフロイデのように見えることを繰り返していることを知っているが、確かにそれが快感のようである。しかしここでも、ドーパミンの分泌について、何らかのデータを明かしてほしかった。少しだけ世に知られた物質名を、殆ど根拠を示さずに持ち出して自説を根拠づけるようにするというのは、科学者としては、好ましいやり方ではないような気がするのだが、どうだろう。
 残酷なこと。それは殺害も含まれる。そもそも人類が争うこと、戦争をすること、それも、ドーパミン受容体のタイプが違う人間がいて、その脳の違いによって、アメリカの共和党支持者と民主党支持者も分けられるなどという背景により説明されてくると、読者としても少しばかり構えなければならなくなってくる。
 その流れの中で、佐藤優の宗教について論じた本を取り上げて、多神教と一神教の違いに触れているところがある。佐藤氏は神学をよく知る人である。その人の話を結びつけようとしていることは分かるが、それで宗教を脳内物質で解明するような態度は、宗教についてあまり考えたことのない読者を、一方向に誘導する危険性はないだろうか。宗教的な家庭で育った子どもは利他性が低く不寛容であることがわかった、というような断定は、特にそうである。この「〜であることがわかった」というのは、著者の口癖のようで、ここぞという時によく使われるようである。しかも、その根拠は何も示されていない。繰り返すが、科学者が「わかった」とするのは、データや理論が明確になった場合をいうはずである。もしかすると著者の頭の中にはそれが分かっているのかもしれないが、少なくとも本書の中には「なぜ」わかったのかは説かれていない。
 とはいえ、宗教界で陥りやすい問題性をそこから学ぶということは、また別の問題である。自分は正義である、これは愛である、そうした思い込みが、その人や組織を歪ませていくことがあるというのは、よく分かる。私が「基本的にそのスタンスには賛同する」と言ったのは、そのことだ。
 確かに、人間にある傾向をもたらすのは、体内で何らかの物質が作用している故に起こると言えるのかもしれない。しかし、ではその物質は何故分泌されるのか、何故作用するようになるのか、それはまた別の問題である。極端に言えば、人間に密かにドーパミンが出るような操作をすれば、人間を操ることができるようになるのかもしれない。そういう目的で物質を紹介するのならまだ分かるが、これこれをすればドーパミンが出てこうなるのだ、ということを説明したとすると、それは「蚊に刺されれば痒く感じる物質が出るので掻いてしまう」程度のメカニズムを改めて説明したに過ぎないのではないだろうか。それを、データ抜きに、自らの訴えたい事柄を正当化するために、科学者だけが知っている魔法の言葉を見せて、だから自分の訴えたいことは正しいのだ、というように持っていくのであれば、そのこと自体が、本書のテーマが示す問題に陥っているのかもしれない、とさえ思う。
 それに、後半は特に正義感から他人を攻撃することが非難されていたが、シャーデンフロイデとは、自分が他人を攻撃することではなかったはず。「ざまあみろ」ではあっても、「だから私があなたを攻撃することは正義である」という心理のことではない。その意味でも、何故題名がこうであったのか、そして結論が適切であったのかどうか、私には全く「わからない」のである。




Takapan
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