本

『サルトル 人と思想34』

ホンとの本

『サルトル 人と思想34』
村上嘉隆
清水書院センチュリーブックス
\1000+
1970.4.

 分かりにくいが、1970年というのは最初の出版であり、2014年以来新版として壮丁を新たにして発行されている。しかし活字は昔のものを使っているのか、クラシックである。
 何よりも、本書はサルトルがまだ存命中に書かれていて、最後の年譜を除いて基本的に発行当時のままであると思われる。そのため、まだこれからサルトルがどうなっていくか、というような内容の結び方になっていくのは仕方がない。その結論を出すのはいまの読者であってもいい。
 かつては学生運動や若い思想家たちの憧れの的であったであろう、サルトル。その生き方や思想が、若者たちを奮い起こした。日本ではどうだっただろう。神に基づかない考え方と、その文学による迫り方は、かっこよさを感じさせたことだろう。ノーベル賞辞退というのも、かっこよすぎる。
 そのサルトルについて、私生活から思想までを新書形式で手短に示そうというのが本書である。シリーズの一冊であり、それぞれ要領よくまとめられており、決して安易なノウハウ的説明に妥協はしていないように見受けられる。著者自身、もっと簡単にすべき可能性はあったものと述懐している。
 もちろん、パートナーとしてのボーヴォワールの存在抜きにしては語れないサルトルであろうが、その点ももちろん本書はよく描かれている。その生い立ちや思想的背景などを含め、最初に著者自身の視座でたっぷりと熱く語られている数頁にまず注目するとよいだろう。その末尾に、「本書のねらい」が挙げられ、サルトルの思想的位置づけを、とくにマルクス主義との関連から図ることと、サルトルの思想の変貌を明確に描こうとすることとが明らかにされている。そしてそこに「存命中」の人物を描く困難さにも軽く触れている一文があり、時代を感じさせる。
 内容としては、初期の『存在と無』などにおける無神論的実存主義について、また即自存在と対自存在といった、哲学の教科書のような項目が並び、そこに自由という、世界に大きく投げかけられた課題への展望が関わってくる様子がよく分かる。それがまた思想の変貌にも関係することになるだろう。そして後期の『弁証法的理性批判』を踏まえた形でのサルトルの現在を伝えることで役割を全うすることとなっていると言えるだろう。
 神の存在を前提してこその、本質からの説明を覆し、人間が事実置かれている状況が実存であることから出発する考え方は、神を前提としない日本人の若者には恰好の思想的バックボーンとなりえたのかもしれない。自分の本質は自分でつくりあげよ。そこに自由があるのだ。それはある意味で苦しいことなのかもしれないが、自分をただのモノのように扱われてそれでよいのかと問いかける勢いは、確かに社会運動の原動力となりうるものだったと思われる。
 しかし、ただの思想としてこうしたことを羅列するのではなく、幼いサルトルの置かれた環境と成長の中で見たものなどをよくよく描きつつ、その思想の誕生を読者に感じさせようとする苦労が本書には漂うと言ってよいだろう。実際サルトル少年の生い立ちというのもなかなか複雑というか、たいへんな中で子ども時代を過ごしてきたのだということを、改めて感じさせる。人は、その子ども時代の育ち方、育てられ方によつて、考え方や人生を大いに変えられるものであろう。
 本の終わりのほうで、著者がまた大きく前面に出てくる。そこでは、この種類の紹介する本としては異例に感じられるほどに、思想家の欠点を強く示しているように見受けられる。それは「自己認識」という観点からのものであるが、関心がおありでしたら、どうぞ直にその批判と出会ってもらえたらよろしいと思う。
 サルトルの生涯から著作の内容、いろいろな人との出会いと対立などを次々と綴ってきた本書は、あまりにも広範囲で、またかなり深い洞察の中でなされた上に、淡々と流れ続けてきたために、著者自身恐れているように難解な本となった印象は否めない。確かにこれを肴に議論をするにはよろしい素材となったことだろうが、待てよ、と読み返さなければ合点のいかないところは多々あろうかと思われる。これくらいの気骨がなければ、半世紀前には哲学者を扱う本としては通用しなかったのではないか、というあたりまで思いを馳せつつ、これを現代に新装版として甦らせた清水書院に敬意を払うものである。さて、いま読者は本当にこのような企画構成の書に、意義を見いだしうるものであろうか。出版後のそうした反応や影響についても、興味が出てくる。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります