本

『SNS暴力』

ホンとの本

『SNS暴力』
毎日新聞取材班
毎日新聞出版
\1300+
2020.9.

 本来女優ではない人がまるで女優のように、しかしそれが素人らしくてとてもリアルだということで、実際の若者の生活そのものであるかのように見せる仕組みの、台本のないはずのドラマ。そこである女性が見せた一面が、視聴者にとり鼻についたのか、SNSでその女性に個人攻撃を一斉に浴びせた。そのため、その女性が自殺した。
 韓国ではしばしばこのようなニュースが流れる。日本でもこうして、実に気の毒なことが起こる。いや、気の毒だなどと言っている場合ではない。ツイッターをする者は、ついそれが攻撃的になることがあるものだし、それが何百何千と押し寄せるとなると、一人ひとりはちょっとしたつもりでも、防御ではない暴力となるのだ。まさに、言葉の暴力。
 これはひとつの事件であるとして、国会でも取り上げられた。その後法的な措置にも至り、発信者の特定から書類送検などもなされている。
 これが恐らく、この取材のスタートだったのだろう。もちろんそれまでも、誹謗中傷はたくさんあった。しかしこうして命が消えたということの重みは、もうこれ以上こんなことがなされてはならない、という、報道者としての義憤と叫びとを呼び起こしたのだと言えよう。
 事例はほかにも幾多ある。取材の及んだところでしか詳しくは紹介されていないが、全くなぜ集中放火されなければならないのかというど些細なことから、とてつもない暴力が突きつけられるのだ。それはただ悪口を吐くなどという程度では収まらない。実名を晒すのはもちろん、その住所も公開され、自宅や事務所に損壊などの被害が出るし、家族への脅迫もなされる。いったい何が正義なのか。やっているほうは、一種の正義漢でやっているのだが、とんでもないことだ。
 本書の副題は「なぜ人は匿名の刃をふるうのか」と問いかけている。SNSでの事例を挙げるのは、新聞社としては難しいことではない。また、その関係者に取材するというのも、新聞社は動きやすいだろう。中には加害者との接点をもつことができた場合もある。こうした利点を活かして、毎日新聞社が、資料をもとに呼びかけているというのがこの本である。ぜひ、新聞社という情報の集まる機関が、このようなデータを、プライバシーに問題がない程度に、用いてもらいたいところだ。
 加害者のほうは実はどういう人間であるのか。それも、分かった範囲で教えてくれる。また、こうしたいわゆる炎上についても、実際のところどうなのか、知らせてくれる。
 そして、報道関係者としての理解できる範囲で、その心理に迫ろうとする。そこは、心理学的にどうのこうのというものではなく、あくまで現象的、実際的なものである。だから学問的ではないかもしれないが、私たちが共に考えていくための大切なデータとなる可能性を期待したいものである。
 ではそういう被害に遭ったときにはどうすればよいか。その可能性も拓く。かつては警察も全く相手にしてくれなかったことが明らかにされるが、近年はしだいに重く扱われるようになってきたようだ。しかし表現の自由という隠れ蓑により、法的には簡単に対処できないのが現状のようである。
 そして、SNSと私たちはどうつきあっていけばよいのか、提言に至る。これが本書のあらましである。
 私が本質的な部分として注目したのは、実は私が常日頃考えていることに関わってくるのであるが、143頁あたりから展開する部分である。山本七平の『空気の研究』をひとつの鍵にしており、その「空気」という概念を使って本書では説明しているが、どんな根拠や理由であれ、そこにあると幻想する空気、あるいは正義の思いこみ、それに反するものはすべて罪だとし、自らが天誅を下すことを正義としていく、勝手な自己中心性である。空気のせいにして、自分の責任や自分の愚かさというものを無視させようとする狡い思考、それこそ人間の罪というものを、真摯に考えなければならないと思う。
 これは、コロナ禍の中で、自粛警察という形でも現れている。それは、戦時中も当然の如くそこにあった精神状態であり、心理である。五人組の別名である隣組もまさにそうであるし、自分が従っている正義に反する者は成敗してよいという論理を実践する恐ろしさがそこにある。
 結局、SNSという場やツールが新しくなっただけで、中身は、こうしたことと同じことだと私は捉えている。だが、とにかくそれに狙われてしまった人の恐怖は計り知れない。そうした一人がこう語っているという。
「『こいつはたたいていい』という空気ができあがると、ものすごい数の誹謗中傷が飛び交うが、1週間もすれば消えてしまう。人々が一時的な空気に過剰に順応してしまっているのだと思います」
 これに対して取材班は、「目には見えず、明文化された規範でもないのに、強い拘束力を持つ日本社会独特の「空気」。SNS空間でもその影響力は大きい。それが誹謗中傷や暴力的な投稿という闇にもつながっているのだとすれば、社会の病理と真剣に向き合う必要があるのではないだろうか。」と問いかけている。
 そうだ、そうだ。教会にいる人は肯くだろう。しかし、この世はそういうふうになっている、と他人事のように言うとすれば、それこそが、この暴力の源泉なのだ、と私は声を大にして言いたい。なぜなら、私ははっきりと、教会やキリスト教世界にも、これと同じものを認めるからだ。私は、牧師と名のつく人も、平気でこれをしていて、された経験がある。自分は正義を行ったつもりで罵声を浴びせたのだ。気づかない、意識しない、意識しようとしないことほど、恐ろしいものはないのである。




Takapan
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