本

『ローマ帝国とイエス・キリスト』

ホンとの本

『ローマ帝国とイエス・キリスト』
磯部隆
新教出版社
\2730
2013.8.

 なかなか刺激的な本である。聖書についての研究では、それを専ら信仰の書として解説する本もあれば、冷徹に歴史書として分析するという立場もある。それはしばしば信仰的姿勢に対して挑戦的でもあり、スタンスとして、信仰は嘘ばかり信じている、という見方から始まっていることも少なくない。
 だが、中にはいるのである。信じつつも、学問的追究も大切にしたい、という学者が。そのとき、時折自分の信仰的態度と学究的結論との間でジレンマが起こる。不条理なるが故に我信ず、という立場もいにしえからあるわけだから、なんの不思議もない状況なのではあるが、この現代にあって聖書がまるで死体解剖されているような状態にあって、なおかつ自分としては信仰していきたい、心の支えにしたい、という思いがある学者というのは、どこか心苦しいものを抱いているのではないかと予感する。いや、そこも割り切って、あまりにもあっさりと聖書は嘘を書いています、などと口走る人もいる。とにかくそこは人さまざまなのだ。
 この著者はその点で、自己との葛藤があることを認め、それをあとがきで記している。この自分の中での対話が実に興味深い。ここに、著者の誠実さを見る。
 だから、この本の分析は、聖書を解釈するにあたり、これまであまり強調されていなかった大きな視点を提供する中で、著者の、聖書に留まろうとする立場をよく示しているようにも見えるのである。その視点というのは、タイトルにある、ローマ帝国である。つまり、これまでは福音書について、それはユダヤ教との対決であり、ファリサイ派からの脱却をキリスト教が図り、実現していったという理解で説明が終わっているようなところを、実のところイエスの譬えひとつとっても、そこにはローマ帝国の影響があり、ローマ文化との対決さえ見られるのだという点を強調するのである。
 専らユダヤ教との比較でしか語られない場合が多い福音書の解釈を、ローマ帝国の用語や背景から説き明かすというのが、時に爽快である。そうでないとその譬えはいきいきと伝わらない、ということが確かにあるからである。もちろん、当時のユダヤの地はローマ帝国の属国であり、自治はある程度あったとしても、ローマの傀儡政権なのであって、文化的にもローマ方式に染め上げられていたという理解がおそらく正しい。だからこそまた、その中で、国粋主義たるファリサイ派の生き方というのがあったのである。これは、右翼台頭というような状況を想定するなら、たしかにありうることだろう。だから、庶民の生活感覚の中でも、実のところローマ文化はかなり浸透しており、その前提でイエスが身近な生活感覚を以て話をした、というほうがたいそう分かりやすいのは確かである。
 こうして、イエスの生涯が、そして弟子たちの歩みが、ローマという背景の中で語り直されていく。短い項目の中でその場面が次々と変わっていくので読みやすく、楽しい気持ちで読み進めるのもこの本の魅力であろう。ただ、これはやはり一般書であって、そこに著者の熱意は感じるものの、「〜と思われる」式の、想像による結論というものが多く、学問的に追究された結論ではない可能性があるところは、仕方ないと言えば仕方ないように見えた。あるいはまた、その想像による推論のつなぎのところが、著者の信仰的姿勢と関係しているのかもしれない。
 ところが最後に大胆な結末が待っていた。これをここで明かすのは、これから読もうとする読者に対して逆に不誠実であるかもしれないから、秘めておくことにするが、やはり幾分の想像を交えながらのものではあるにしても、ひとつの価値ある説を以てこの本は閉じられるのである。果たしてそれでよいのか、それで全体のつながりが乱れてしまうことになりはしないか、私は心配であるが、しかしそれを言わないでおくことはこの著書を不完全にしてしまうことになったであろうから、読者が楽しんでいけばそれでよいだろう。
 イエスの弟子たちの中に、対立する、というと大袈裟かもしれないが、意見を異とするグループがあったことを、著者は強調する。それはおそらく常識だとも言えるだろう。聖書の中に、普通に読んでいて、矛盾するかのように見える考えが存在するのは確かだが、それらはそのグループの見解の相違からきている、というような説明がなされている。それはたんに、福音書の中で記述が違っている、という程度のものではない。意見そのものが逆であったりするのである。教会組織の成立のために十二弟子を神聖視するようなマタイや、その教会組織の正当化を強調するルカなどのような書き方は、それぞれの立場の必要性あってのことだろうし、そもそもマルコは弟子たちはイエスを理解していなかったという素朴な、おそらく事実に近い視点を持っているというところもある。ここにパウロが入ってくる。パウロは、マタイやルカよりも確実に前なのである。いや、新約聖書においてはパウロ書簡が最初に成立している。このパウロ派の働きも、本書の中で説明される事柄に大きく関与している。パウロ自身は、パウロ派だとかアポロ派だとかをひどく非難しているが、その意味からすると、このグループ成立は些か皮肉でもあろうか。
 価格以上に楽しめる。また、学びにもなる。学説としても学んでよいかもしれないが、まずは面白く聖書に親しめる。ただ、できれば、信仰の眼差しをもってこそ、楽しんで戴きたいと私は願う。




Takapan
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