本

『キリストの勝利 ローマ人の物語XIV』

ホンとの本

『キリストの勝利 ローマ人の物語XIV』
塩野七生
新潮社
\2730
2005.12

 タイトルだけ見ると、いかにも聖書や教会にとって都合のよいような響きに聞こえるかもしれない。
 もちろん、著者は、この「ローマ人の物語」シリーズをライフワークのように執筆し続けている、教養人である。ローマ帝国のことについては、事細かに調べている。そのローマ帝国が、ついにキリスト教を国教とする、という事情については、世界史で必ず学ぶことであるし、教会でも、それをキリストの勝利として語ることが、ないわけでもない。あの、イエスとその弟子たちを迫害し、クリスチャンを痛め続けてきたローマ帝国が、ついにキリスト教のものになったのだ、と。
 はたしてそうなのか。捉え方は人それぞれである。歴史は、歴史観によって見つめられ、量られる。そうしてまた、人は新しい歴史を創造していく。
 著者は、クリスチャンではない。そして、ローマ人たちを愛している。シリーズも末に近づいたこの巻では、コンスタンティウス帝と、ユリアヌス帝という二人の皇帝を大きく掲げて、ローマ帝国の変貌を追跡する。広がった帝国周辺の国々との緊張の中で、分割統治と権力闘争とを経ながら、ミラノ勅令により宗教の寛容を以て、帝国内の治安が図られていく姿である。
 また、当時キリスト教会内自体、争っていた。アタナシウス派とアリウス派との争いの中で、皇帝はその圏外で動いていたものの、だんだんそうではいられなくなっていく。ただし、ユリアヌス帝という、後にキリスト教側から「背教者」と称される皇帝は、少々趣が違った。その厳しい評価とは別に、著者は、政治的に、ローマ本来の寛容の精神を重視することに、ただ戻っただけのユリアヌス帝を、悪のイメージで見るのは公平でない、と。それは政治的にも、優れた方策ではなかったか。ミラノ勅令当時の、寛容という宗教に対するあり方をベースに置き直しただけなのであるから。
 ついに、司教アンブロシウスの時代となり、政治的にも、キリスト教一辺倒と化していく。それは、異教、すなわち従来のローマの神々の像を破壊し、消し去る行動であった。ついに皇帝ですら、司教の前に跪くのである。キリスト教を国教化せざるをえなくなったテオドシウス帝の名は、古代史の重要暗記項目だが、それも政治的な流れの中でそのようになっていったにすぎない、というのである。
 はたして、これはキリストの勝利であったのだろうか。テオドシウス帝の死と共に、帝国の東西を委託された二人の息子は、完全に別の国家として振る舞うべく運命づけられた。ここに、ローマ帝国は東西に分裂するのである。キリスト教が天下をもった帝国が、分裂し、弱体化する。ついには、それらは滅亡への一途をたどる。
 しかも、キリスト教を国教化する営みは、宗教的というよりも、多分に政治的な策略でもあった。古代イスラエルが聖書にあるように、宗教的情熱によって治められたいたとするならば、それとは実はローマ帝国の事情は違う。皇帝が宗教的な情熱から国教化したわけではないだろう。
 しかしそれも、神の見えざる手がそうしたのだ、と捉えることもできるだろう。この福音は、この歴史的過程を経て後、ようやく世界へ伝えられていくことになるのだから。
 キリストの磔刑にしても、このローマ帝国の事情を抜きにしては理解しがたい部分があろうかと思う。もちろん、教義的なものは信仰の範疇で大いに捉えなければならない。他方、歴史的にどんな意味があったのか、さらには歴史を背後から導く神ということについても、私たちはもっと関心をもってよいように思われる。
 このシリーズが多く読まれている訳は、よく分かるような気がした。




Takapan
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