『アンの娘リラ』
モンゴメリ
松本侑子新訳
文春文庫
\950+
2023.12.
最後に「訳者あとがき」を読む。647頁の「謝辞」とそれに続く付録と参考文献を見終わると、感無量だった。松本侑子訳による全文訳の「赤毛のアン」シリーズ全8巻を、読み通したのだ。
今回のきっかけは、テレビアニメ「アン・シャーリー」の放送だった。すべて読もうと決心した。それは、松本侑子訳に、細かな注釈が付いている、ということを知ったからである。英米文学の引用はもちろんのこと、キリスト教や聖書についても、よく調べて書いてある。最初の『赤毛のアン』でその「訳者によるノート」を見て震えるほど感動し、それで全部読むことを決意した。
そしてついに、最終巻。主人公は、もはやアンではない。モンゴメリの描き方は、最初はアンべったりだったが、周辺の登場人物が次第にそれぞれのエピソードを呈し始める。短篇小説の名手でもあったそうだから、いろいろな小さなエピソードが、アンという大きな世界の中に位置を持つと、そこにちゃんと居場所をつくり、しかもそれがしっくりといく。こうしてアンを巡る大きな世界が構築されてゆくのだ。
邦訳の題は掲げられた通りだが、原文の直訳は、「炉辺荘のリラ」である。アンの娘であるが、どこか発音が幼い点がある。日本語でも、幼児語というか、幼い発音というものがあるものだが、それを英語で描いているのであるから、訳者の苦労も一入である。それを、よく考えて効果的に用いている。そのことは、最後の最後に微笑ませてくれることになるのだが、それはともかく、本編のテーマは、明らかに戦争である。第一次世界大戦は、モンゴメリに於いてはすでに終わっている。それを数年後に振り返りながら、舞台を第一次世界大戦に置いて、アンの家族とその周囲の人々それぞれの思いや行動を描く。それぞれの人物が生き生きと、そしてそれぞれの思いが独立に奏でられてゆく。さながらシンフォニーのように、一つひとつのパートが意義をもちつつ、全体が調和して一つの楽曲が生み出されてゆくかのようである。
もちろん筋道をここで明かすことはできないが、少女のリラが、大戦中の四年間で大きく成長する。家族と戦争との関係、また恋の出来事、そうしたものが織り成され、美しいストーリーが流れてゆくのだ。
戦争の場面そのものは描かれてない。いわば「銃後」の姿である。特に女性の眼差しとその立場が、生き生きと描かれる。モンゴメリの体験も含まれているのだろうが、若者たちと戦争という意味では、直に大戦中にモンゴメリが経験したわけではない。その中で、国の勝利を願う人々の姿は、痛々しい。必ずしも戦争に賛同するのではなくても、家族を戦地に送った女性としては、その無事を願うためには、戦争に勝利しなければならないのだ。奉仕活動に精を出すし、リラは「青少年赤十字」の活動をする。
私は高校のとき、その「青少年赤十字」の一員だった。いくつかの施設を訪ねたり、募金活動をしたりもした。高校に献血車を呼んだこともある。思えばそのときに、かすかにだか手話に出会っていたし、自閉症の子どもたちと長く接していた。そこには、戦争という影はなかった。リラたちの活動には、どのような切実さや祈りがあったことだろう。
8巻、ずっとその注釈には魅了され続けて来た。また、「訳者あとがき」は当然後から読むべきで、読み飛ばした筋書きや読み取るべきポイントが、余すところなく記されてあった。完璧な復習ができるガイドであった。とにかく最初の頃には、注釈ひとつとっても、インターネットも幼児期だったために、資料を探すことにとんでもない手間暇と費用をかけてつくってこられたのだ。次第に、検索や調査がいくらか楽になったことであろうが、それでも、綴りの微妙な差異や、モンゴメリの誤記であろうことまで、実に深い解説をつけてあった。特に聖書や教会については、クリスチャンではないらしい中を、よくぞここまでと調べて、説明を加えてくれたことである。
この8巻の「訳者あとがき」には、「フランドルの野に」という、ジョン・マクレーの感動的な詩が紹介されている。戦争を経ての悲しみと、ささやかな希望が詠われていて、この詩は、大戦終結の11月11日の戦争記念日に朗読されるのだという。「ぼくらは死者」と告げる詩の語り手の言葉が、胸に刺さる。物語の文章を右から左へと訳すのではなく、その一つひとつの意味合いや、こうした物語の背景にあるものをとことん読者に伝えようとしてくれる訳者の心意気には、敬服の他、何を返せばよいか分からない。
モンゴメリは、絶対的な戦争反対者ではなかった。だが、晩年、第二次世界大戦の始まりを知ることになる。世界の平和が、もはや戦争によってもたらされるとは、きっと考えられなくなっていたに違いない。その気持ちを私たちは受け継いでゆき、モンゴメリが書かなくなった、後のアンやその子どもたちの未来について、新しく綴ってゆかなくてはならないのではないだろうか。私たちは、それを綴ることによって初めて、このアンの物語を「読んだ」ということになるのではないだろうか。
この物語は、強烈な、しかし実生活を支配してくる、戦争論であったかもしれない、と思う。ただ日本と違って、ここには同調圧力が暴力的に迫ることは殆どないであろうのと、個人の信仰がそれぞれにあるのと、その違いを意識して、日本人の私たちはこのことを受け止めた方がよいだろう、とは思う。

た
か
ぱ
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イ
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