本

『ルネサンス巷談集』

ホンとの本

『ルネサンス巷談集』
フランコ・サケッティ
杉浦明平訳
岩波文庫
\500
1981.12.

 400頁あるとはいえ、1981年で500円の岩波文庫というのは、高いような気がする。それを何十年も後に古書店で購入したのが350円。珍しいのと、面白そうなのとで、これなら買いかな、と思って即決した。
 14世紀イタリアのフィレンツェで生まれた作者は、特別な作家というわけではない。むしろただの商人であって、後に役人のようなこともしたらしいと訳者が解説してくれている。ただ、ボッカッチョの弟子と自称していることや、その代表作『デカメロン』をリスペクトしたような、庶民の話だというふうに理解すると、確かに合点がいくようには思う。
 どうやら全部で300ほどの話が残っているらしい。短いものばかりで、本書にはその中から74篇が掲載されている。訳者の言によると、昔全集を発行していたところ、発行者が倒産し、最後まで出版できなかった。諦めていたところ岩波文庫から抄訳の話がきたので、四分の一を自選し、ここに日の目を見たのだという。
 師と仰ぐボッカッチョも出てくるし、画家のジョットなど、私たち知るところの人物もそのままに顔を出す。しかもこのジョット、とんでもない曲者だというふうにしか見えないが、あのキリストについての敬虔な絵の数々からは思いも知れないような人物である。ことさらに嘘を描くとは思えないとすると、人間とはそんなものなのだろう。
 ここにあるのは、恐らく庶民の視点から見た庶民の世界であろう。品格もないし、下賤な会話であり(訳者はそれをうまく訳している)、時に強烈に卑猥なものである。未成年には読ませられるものではない。
 中には、どうしてそれが面白いのだろうかと思えるものもある。話には、最初に短いまとめが新聞のリードのように置かれており、大まかな粗筋のようなものが紹介されている。あるいは前口上とでも言うべきだろうか。読者も、ほう、と自分の心の中にひとつの道を設けた状態から細かく話を聞いて楽しむことができる。ネタバレのようでありながら、これはなかなか聞きやすい。案外よい作戦かもしれない。人物名が露骨に示されているので、恐らく創作というよりも、実在の人物ばかりなのだろうと想像する。場所や習慣についても、当時の歴史からして本当のものばかりだからである。
 歴史が、為政者の政権闘争と金持ちの指図した世の中ばかりであると思いこんでしまうような罠が、私たちにはある。聖書においてもそうで、イエスの旅をイエスの教えや当局との争い、そして十字架と復活の物語だとして読んでいるとなるほどと読んでいくのであるが、その旅の最中の旅費や食事、衣類の取替や入浴についてなど、生活の営みが全く分からない。当時の人には日常過ぎて書くまでもないことなのだろうが、文化も時も異なる私たちには、庶民の普通の毎日の生活というものが、全く見えてこない。
 そこへいくと、本書は、庶民の生活と心情などが、余すところなく描かれている。文化人や政治家も出てくるが、その私生活の部分が多く、人間、その生活ぶりや考えることは、誰しも同じだよな、というふうにばかり思えてくる。
 時に動物も活躍する。また、ホラでしょ、と言いたくなるようなものもあるが、それもお笑いのためというふうに捉えると、悪意ある嘘だとは決して思えない。嘘と真をないまぜにしたかもしれないが、今の私たちから見ても笑えるものも多いことから、当時はきっと大笑いだったことだろう。
 大多数の人間は、こんなふうな生活だったのだろう。それが実のところ、ほかではなかなか見られない。貴重な作品であるかもしれないし、それをすっかり忘却したままに、歴史をしたり顔で語るのは、ヒューマニズムとは違うのだということに気づかせてくれる。決して低俗だとか、文が下手だとか言わずに、リスペクトしてみよう。但し、その文章は簡潔で、きびきびとしているように感じるので、やはり後世に残っただけのことはあると言ってよいのではないかと思う。




Takapan
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