本

『みんなの宗教2世問題』

ホンとの本

『みんなの宗教2世問題』
横道誠編
晶文社
\1800+
2023.2.

 2022年の安倍晋三元首相の殺害事件により、背景にあった統一協会の組織と信者、その家族との関係が、一躍有名になった。それを受けて、信者そのものというよりも、その信仰活動による被害者として逃れられない位置にいる、子どもたちのことが取り沙汰されるようになった。いわゆる「2世」問題である。
 以前からずっと統一協会問題に関わり、組織の批判と人的救出に尽力してきた弁護士やジャーナリストの声が、もはや他人事ではないという形で、日々テレビ番組から聞こえるようになってきた。それにより、出版も盛んになる。中には、始めてこの問題を知った者たちが、便乗的に売ろうとしているのか、というものも見られたが、こうした動きの中でも、本書は非常に質が高いものと言ってよいと思われる。この問題を、社会的な概観ではなく、当事者の問題として考える時には、ぜひ手元に置いておきたいと思われる本である。
 まず、当事者たちのさまざまな声が告げられる。明確に宗教団体の名前を出しているので、内実が理解しやすい。次は、編者によって、特に海外での研究情況が紹介される。たんに国内だけの出来事でなく、世界的な、あるいは普遍的な事柄として事態を理解すべきである視点が与えられる。
 この後、識者による論考が並べられる。一つひとつが短いのが残念だが、エッセンスが語られていると言える。島薗進氏や釈徹宗氏、江川紹子氏というよく知られた名前もそこにある。そこには、「宗教2世」という昨今の紹介のされ方でよいのか、というような疑問も明らかにされ、また、長年の関わりからも、自分の中で問い直す作業があるという声もあった。周りの状況も変わってきていることがあるのだ。
 精神科医の斎藤環氏と編者の横道誠氏との対談は、なかなか力あるものであった。信仰の自由という問題が、子どもに対して向けられることへの懸念が強く表されていたように見えたが、そのときには慎重であらねばならない、と私は思った。それは、「宗教」という定義である。つまり私たちは通常の生活の中で、宗教心を育むことが、幼い頃から当たり前に行われているという点である。オウム真理教の事件は大きい意味をもっていたが、あの一つの背景として、宗教教育が教育現場から殆ど削除されているというものがあったように私は思う。宗教とは何か、ということについて、殆ど知ることなく大人になったとき、突如として現れた「こいつはなんだ」と思わせるような現象や誘いに、呑み込まれてしまったというのが、あの実行犯たちの精神状態ではなかったか、と思うのである。それなのに、宗教を成人段階で始めて選択して信じてよいのだ、というようなあり方で、つまり幼くして宗教心を養うということをカットしておいて、それでよいのか、という心配がするのである。
 日本ではとくに、それを「宗教」と呼ぶことのない宗教活動があると言われる。かつての国家神道が、これは宗教ではない、日本国民ならば誰もが弁えていなければならない精神だ、ということで強要されたことを、忘れてはならないと考えるのである。果たして子どもたちを「宗教」から隔離しておいて、しかしやはりどうしても備えられていかなければならない宗教心のようなものが、それは「宗教」ではないのだよ、という形で与えられるとき、それはあの国家神道のように、実は宗教でありながら、それは「宗教」ではないという論理で通すことができるのだろうか。通してよいのだろうか。そんな危険性を、どうしても案じてしまうのである。
 本書に戻ると、この度の2世報道で毅然とした態度をとることで好感をもたれた一人として、鈴木エイト氏がいたが、その寄稿もある。失礼ながら、昔の統一協会問題のときにはお見受けしなかった若い方であるので、その素性については私は知らなかった。それが今回よく紹介されていたので、その人となりについてもよく分かったので、読んでよかったと思っている。
 さて、横道誠氏であるが、エホバの証人の2世という当事者である。先の対談でも語っていたが、本書の終わりのほうは、この人の文章である。実によくカルト宗教の問題に関わり、本を読まれている。そこに挙げられた文学やアニメなどのことを、私はろくに知らなかった。ただ、映画「星の子」はなかなかよくできたものだと私は感じたが、横道氏も高評価していたので、少しほっとした。村上春樹についても、カルト宗教についていろいろな作品を呈してきているが、そこには少し厳しい評価がなされていた。なにしろ当事者である。本人である。本人からして、よく描かれている点は当然分かるし、作者に見えていないところも適切に指摘することができるわけである。こうした一連の叙述は、特に参考になった。
 最後のほうで、「信じない自由」が必要なのだ、という境地に辿り着いた横道氏の言葉を見た。島薗氏の言葉で気づかされたのだという。また、複数の論者が語った、「宗教2世」という言い方が適切なのか、という問いも、真摯に受け止めて射るようだった。かといって、「カルト2世」でよいのかどうかもまだ今後の検討課題となるであろう。伝統的な宗教が、この問題から逃れているとも思えないのである。つまりは、伝統的なキリスト教世界でも、決して他人事ではなく、一面問題に挙げられた教団などを見下すようなことをしてはならない、というのが、私の率直な意見である。特に近年カトリックの中で挙げられている、教職者による犯罪は言うまでもないが、プロテスタントの中にも昔からいろいろ犯罪が起こっている。そうなると、潔癖を求める人が、行き場をなくして、結果的にカルト教団に吸い込まれていく、ということも実際起こっている。
 では、宗教というものはないほうがよいのか。それもまた、極論である。どうあっても、人間は罪人なのだ、ということで片付けてはならないのだが、いまのところ、そう言っておくくらいしかないような気がするのも、少しばかり寂しい。大切なのは、犠牲者、苦しんでいる人が、いま確かにいて、救い出されなければならない、ということだ。宗教で苦しむ人を救う、それもまた、果たして宗教なのであろうか。




Takapan
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