本

『魂の養いと思索のために 『キリスト教綱要』を読む』

ホンとの本

『魂の養いと思索のために 『キリスト教綱要』を読む』
D.K.マッキム
出村彰
教文館
\1500+
2013.11.

 カルヴァンの『キリスト教綱要』は、主著として世界史や倫理の基礎知識でもあろう。しかしえてしてそのような著作は、開いてみた人というと少ない。まして、全部読み通した人となると稀である。私は実は近年それをやってみた。読み応えがあった。同時に、実際に本に触れて、カルヴァンという人に初めて出会ったような気がした。実際にその人の話を聞いてみて、やはり「人」というものを感じるというのは本当だ。実にねちねちと、そしてまた、こいつは悪者と決めた相手に対しては、情け容赦なく攻撃し、また、その悪どさを徹底的に追及する。今でもそういう人は当然いるし、自分もそういう思いがないわけではない。新聞などは実にひどいものがある。そういうカルヴァンを見るのも楽しみだろうが、これは容易なことではないし、その時間が許されない人が多いことだろう。
 本書は、いわばダイジェストである。しかし、たんに抜き書きしたのではない。原典を切り貼りしたところで、ふむふむ分かった、と言えるようなものではあるまい。第一、一定の文脈や聖書の検討の中で読むのでなければ、カルヴァンの意図を曲解してしまいかねない。
 そこで、本書は原典の引用を少しした上で、その背景や内容を、著者が一定の量で記すという形式をとる。考えてみれは、これは聖書のことはの説明によくやる手法である。聖書の中の一節を掲げ、これについて説明を施す。いうなれば説教というものはそもそもそういうものであるとも言えよう。
 これを、カルヴァンというテキストについてやっているという具合だ。だから、本書を読んでいく上で、カルヴァンと対話をしているというよりも、著者と語り合っているという気が強くしてならなかった。ある意味で、カルヴァンは飛んでしまうのである。
 もちろん、それは悪いことではない。言ってみれば、聖書の一句を挙げてデボーションをしているその人の思索を垣間見ているようなものである。このデボーションについても、私はよく分かる。その句の追究をしているのも確かだが、自分の気づいたある点について深めていったり、別の句と関連付けたりする。あるいはまた、現在の自分とのつながりを見出したりもする。これを著者は、カルヴァンについてやっているようなものではないだろうか。
 ただ、自由気ままにそれをしているのとは違い、読者がいつの間にかカルヴァンの言っていることを受け容れていくように導く。つまり、著者を何らかの通訳者のようにして、声色と言葉は著者のものに違いないのだが、内容として実際上カルヴァンから話を聞いていた、という事実を読者にもたらすことができているのである。
 内容は、信仰から教会生活、従順や生活の面、キリスト者としての生き方、順調なとき、辛苦の中、そしていつか将来と永遠の命を見つめつつ、といった段階を踏んで著者の案内に従っていくことになる。いつの間にか著者にしてやられたようなものである。うまく、大部の『キリスト教綱要』をたどったようなことになり、しかもねちねちした不愉快を覚えずに済む。この爽快な気持ちが、どうにも本のタイトルからは伝わってこないような気がして、やや残念にも思う。訳者は、日本語として原題の直訳はどうかと思い、このように直したというが、私には原題の直訳のほうが、この本の味を一瞬で伝えることができていたのではないか、と感じる。原題を直訳すると、「カルヴァンと一緒にお茶(コーヒー)でも」というところであろう。このユニークなタイトルを原著者は苦労して、あるいは思い切って付けただろうと思うが、そのほうが、たぶんこの本は売れたのではないか、とさえ邪推するのは、私の不純な思いの故であろうか。




Takapan
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