本

『「パウロ研究の新しい視点」再考』

ホンとの本

『「パウロ研究の新しい視点」再考』
コーネリス・P・ベネマ
安黒務訳
いのちのことば社
\1300+
2018.10.

 パウロについて、新しい見方というのがひとつのムーブメントになってきていた。特にプロテスタント教会は、パウロの神学を一定の理解のもとに共通理解をしたものとして、だからこそのプロテスタントであったはずだったが、本当に宗教改革で大きく吠えたように、信仰による義ということは、確かで堅固な基盤でありえるものなのかどうか、問いが投げかけられたのである。
 プロテスタント側の言い分としては、聖書の真理が、カトリック教会の主張とは違うところにある、という理解によって、プロテスタント教会が成立した根拠としているわけであるが、言うなれば、プロテスタントのまさにその「抵抗」は、カトリックの教えに反対することが目的となり、必ずしも聖書を正しく解釈したから、という保証はないのではないか、というわけである。
 パウロはユダヤ主義を単純に否定したという見方も、性急すぎる。パウロがそれを行為により救おうとするものだから否定されるべきであり、専ら信仰こそが救いの試金石であるのだ、と教科書的に結論してそれで終わり、としてよいものかどうか。
 本書は、このような「新しい視点」を主張する研究者の中心的な部分を取り上げ、その考えに無理があるのではないか、と疑問を提示するためのものである。そのための専門的で詳細な理論を展開する書もあるのだが、議論の要点を簡潔にまとめたブックレットとして、本書は編集されたのだという。つまり、要約版である。細かな議論と論拠を、注を交えて滔々と述べるのは、学術的に必要な手続きであるが、一般の読者には手にとってもらえない。また、何を言おうとしているのかが伝わらない。
 それで読みやすい大きさの文字で100頁ほどの内容で、テンポ良く論点が挙げられていき、主張すべきことが示される。
 パウロ研究についての宗教改革の視点がまずはっきりさせられ、続いてパウロ研究にの「新しい視点」の見解が、三人の研究者を取り上げて具体的に紹介される。その後、いよいよこの「新しい視点」を批判的に評価していく。こうした段階が、ほぼ均等な分量で進められていくという形をとっている。そして短く結論が提示される。
 どちらかというと、冷静に議論を重ねていくというよりも、著者が明確に、新しい考え方に反対して、宗教改革の考え方でよいのだということを言いたい思いがそこかしこで見られる、ある意味で情熱的な主張が届けられるようなものとなっていて、この「再考」は、その意味では内容が分かりやすいブックレットとなっている。だからまた、ほんとうにそうだろうか、と「再考」を再考することも行われて然るべきだし、実際そうであるのかもしれない。
 ともかく、この著者は、福音の中心を、神が不敬虔な者を義と認めるという驚くべき知らせに見て、この福音を大切にすべきだという見解をもっている。これを批判するという「新しい視点」により、信仰が歪められていくことに危機感を覚えているというわけだろう。宗教改革の視点を時代遅れであるかのように取り扱ってはならない。十字架の上のキリストの従順さと犠牲の死こそが、神の正義の要求を満たし、信仰者の義を確保する道であったということに対しては、全く譲るつもりがない、という姿勢である。
 もちろん、「新しい視点」がすべて無駄であるというように著者は考えているわけではない。パウロが当時のユダヤ文化の中で戦い、新たな福音を先鋭化させていったであろうこと、つまりユダヤ文化に重ねてパウロの言うことを理解しようという態度は、必要と言えば必要であろう。しかし、だから宗教改革の理解を退けるようなところまで暴走してはならない、と戒めたいというところなのであろう。
 この「新しい視点」は、New Perspective on Paul の訳語として訳者が本書のために提示したものであるが、訳者あとがきに、このような経緯が、短くも丁寧に解説されている。これは案外親切である。とくに、Covenantal Nomism という、イエスやパウロのいた時代のユダヤ教の律法理解を押さえておくための概念については、その語を日本語にどのように訳すべきか、難しい議論を呼ぶ可能性があるため、その説明が施されており、これはまた別の本で、この解説を参照するとよい、というような押さえどころとなっているため、読者は参考になる。つまり、日本の学界における背景がよく語られているのである。ある人が「契約維持のための律法体制」と、内容を説明すべく意訳し、それについてどのような説明をしているかが紹介される。この語は訳者はカタカナで「カヴェナンタル・ノミズム」とそのままにすることにより、それを新しい視点の先導者たるサンダースの定義を適切に示すことで、読者に理解してもらおうという態度をとっている。これは35頁にあるので、これから読まれる方はここで立ち止まって考えて戴けたらと思う。
 さて、これは一つのムーブメントとして終わるのか、大きな曲がり角となるのか、それはまだ現在定まったものではないであろう。固執と革命の問題でもなく、私たちは信仰とキリスト教の将来のために、互いに学ぶべきところ、譲ってよいところなどが、適切に見出されていけばと願っているが、そこに自分も参与しているのは確かである。さて、どうしたものやら。




Takapan
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