本

『キリスト教の合理性』

ホンとの本

『キリスト教の合理性』
ジョン・ロック/加藤節訳
岩波文庫
\1010+
2019.10.

 ジョン・ロックと言えば、17世紀イギリスの哲学者であり、イギリス経験論の代表として挙げられる人物である。また、政治学者としても功績をなし、名誉革命からアメリカ独立宣言、フランス人権宣言へと大きな影響を与えたことは間違いない。そう言えば教育論も見たことがある。偉大な知識人であると言える。
 だから、宗教についても、近代的な考えをもっていたのではないか、と勝手に決めつけていたら、それが大きな間違いであったことを知ることになる。本書は非常に信仰深い人の手による、聖書への賛辞なのである。
 確かに、経験論であるから、合理論のように原則を確立するや否やそこから自動的にと言えるほどに巧みな論理を展開して世界を説明していこうという野望をもつことはないだろう。しかし、経験論もまたアナーキーではないのだから、一定の論理というものを以て世界に対峙する。当時は「理性」というものに目覚めたヨーロッパ文化の成立の時期である。すべてを神の原理から説き明かし、人の行動を律するべきだとすることしか成り立たなかった時代を経て、ギリシア・ローマ文化の華やかさをひとつの華として、人間の理性を信頼することが脚光を浴びてきたのであった。プロテスタント運動にしても、権威的な解釈のみに支配されるのではなく、人間の理性が最優先ではないにしても、人間理性が判断するところを大切にする動きを伴っていたのではないかと思われる。
 ロックもまた、理性を重視したことだろう。しかし、当時やはり問題とされたのが、その理性と聖書と、反りが合わないという点だったのではないだろうか。
 長い前置きとなったが、ロックはキリスト教が理性に合致するものだ、聖書は理性で読めるということを、本書で滔々と説いたのだ。何のためか。ポイントはそこである。私は、自分自身のためではなかったかと思う。自分としては聖書を棄てるような勇気もないし、そういう気持ちもなかった。むしろ聖書を信仰していた。しかし、理性から聖書を見るときに、あるいは見られるときに、聖書はもう理性の時代に合わない、という危機を覚えた。いや、そうじゃないぞ。――これは、現代も信仰者が抱えるひとつのロジックであるかもしれない。科学の前に、信仰などとっくの昔に滅びても仕方がなかったようなものである。それがちゃんと生きている。そんなものだ、でもよかったが、これを弁明したいタイプの人もいる。一種の弁神論はいまなおなされている。ロックがそのような発想をしていたとしても、訝しく思う必要は全くないだろう。
 訳者が最後の解説において、本書の読むポイントをよく説明している。本書は章はただ数字で挙げてあるだけで、標題のようなものがない。そこでこのような解説はありがたい。私もその解説を辿ることしかできないのであるが、要するにロックは道徳をこの聖書の上に確かなものとして立てたかったようである。それをきちんと神の存在証明から『知性論』でなすのだったが、それだけでは道徳の成立へとつながらなかったようである。本書の意図は、そこのつながりのためであったのだそうである。
 そこで、信仰なるものについて、神と人との間の信頼に基づく同意というイメージを明確にすることによって、神の啓示を理性が判断することの意義を見出す。奇蹟を信ずることにより、理性は神の啓示を信頼する信仰が成り立つ。道徳もそこに根拠をもつことになるであろう。
 果たして聖書を道徳のために読むということでよいのか。ロックが発見した道筋で神の言葉が支えられるとしてよいのか。私たちからすれば、疑問が絶えない。読めば読むほど、別のイメージをもつ信仰が浮かんできてしまうのであるが、信仰の「法」なるものとしてイエスを中心に置いていることは、咎められるべきものではない。そしてイエスが信頼に足る存在ならば、そこで与えられた道徳が神に基づくものとして確かな存在となるであろうということも肯けるものであろう。キリスト教の教義の内容についても、自身の着眼点からちゃんと弁えていて、巧みな弁舌も見事である。道徳の根拠付けの先にある希望、救済というものにも触れているものの、関心はやはりこの世界での道徳の存在理由と意義付けであったのだろう。
 だとは思うが、決して論文調ではなく、年配の人の好い話し上手の人が延々と聖書の良さを語って聞かせているようなところを感じる本書である。反発をもたない方が、楽しんで話を聞いてあげるならば、楽しいひとときが送れるのではないだろうか。




Takapan
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