本

『虹の谷のアン』

ホンとの本

『虹の谷のアン』
モンゴメリ
松本侑子新訳
文春文庫
\740+
2022.11.

 赤毛のアンのシリーズを最初から読み始めて、ついに最後から二つめの物語となった。
 モンゴメリの執筆順からすると、必ずしも終わりの方ではない。全8巻とされているシリーズは、アンの人生の時代順に読むことが推奨されている。私はそれに従った。しかしモンゴメリの執筆そのものからすれば、本作の後に、いくらか若い時代のアンの物語を執筆しており、私たちは普通、それを本作よりも先に読むことになる。従って、若干の不自然なところも出てくるわけだが、アンのエピソードとしては何もケチをつけることはあるまい。
 本作に出てくるアンは40台にさしかかった母親として描かれ、子どもたちの姿がよく描かれている。また、モンゴメリの実年齢もそのアンに近いとあって、子どもたちへの眼差しも実感を以て語られているように見える。
 ただ、最初の方の作品とは異なり、アンが主人公とは言い難い面があり、アンの子どもたち6人それぞれについての出来事が、短篇小説のように集められている、という趣もあると言えよう。
 実は、本作の原題には「アン」という文字がない。単に「虹の谷」なのである。それでまた、アンがメインではないのだ、という雰囲気も伝えているということにもなるだろうか。もちろん、アンの生涯を描く最後の作品は、アンの娘リラが主役となり、アンは殆ど退場することになるのだが、本作でも、アンは決して中心で動いているようには見えない。その意味でも、異色の作品になっていると言えるかもしれない。
 一定の年齢を重ねた大人たちの恋愛模様もここには描かれており、大人の小説としての深まりをも感じさせる。アダルトとして読むのに、なかなか味がある。しかし、その背後には、やはり子どもたちの声が響いてくる。虹の谷は、子どもたちのお気に入りの場所である。その「子どもたち」には、メレディス牧師の子どもたちなどをも含み、子どもたちの声が楽しげに響いてくるようにも思われるかもしれない。確かに、そのように描かれている。
 だが、本作には、ハーメルンの笛吹きが隠れたテーマとして流れてくる。それが巧みに物語の中に取り入れられているので、読者は、これは何かの象徴であろう、ということにきっと気づくだろう。また、聖書の引用が、英米文学からの引用よりも多いという点でも、従来の作品とは様相を異にしている。牧師館でこつこつと執筆していたモンゴメリの思いは、聖書への信仰と、それからこの時代にパンデミックをもたらしていた、いわゆる「スペイン風邪」との間で揺らいでいたかもしれない。本作の多くの部分で、牧師とその生活を主軸に描いているというのも、何かそういう意図や心理が影響していたかもしれない。
 こうした点を交え、訳者はまたいつものように「訳者あとがき」で、背景を詳しく説明してくれている。
 400頁ほどの作品の後に付せられた、50頁ほどの「ノート」、つまり注釈が、依然として圧巻であるし、その苦労たるや、インターネットが自由に使える時代であっても、想像以上のものであるに違いない。聖書の引用にしても、信徒として聖書に触れているのではないはずなのに、よくぞここまで、と感心する。
 というわけで少し回り道をしたが、ハーメルンの笛吹きの象徴は、訳者も指摘している通り、第一次世界大戦であることは間違いないと思う。本作の出版は1919年。第一次世界大戦終結の都市である。その真っ最中に執筆していたことになる。そしてまた、モンゴメリ自身、身内から兵士を送ることになった。子どもたち、若者たちを、人さらいのように連れて行く戦争というものと、ハーメルンの笛吹きの物語が、重なって見えてくるのは当たり前ではないかと思う。
 この後、アンの若い頃の、夢に満ちた物語が差し挟まれるのは、ここから20年近く経つ頃であり、モンゴメリの本当に晩年であった。かつて苦しかった思いを抱えていたあの戦争というものから、幾らかでも癒やされたのであろうか。
 しみじみと沁みてくる、反戦の物語であるのかもしれない。聖書の言葉や牧師の生活と共に、戦争について声高に叫ばれる昨今に於いて、本作はもっと味わわれてよいものではないか、とも思う。




Takapan
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