本

『ロボット RUR』

ホンとの本

『ロボット RUR』
カレル・チャペック
阿部賢一訳
中公文庫
\840+
2020.12.

 この戯曲が、「ロボット」の語源であることは有名である。しかし原題にこの語はつかず、{RUR」であることは知らなかった。これは舞台である「ロッスム・ユニヴァーサル・ロボット社」の略号である。この会社の重役や諸々の責任者たちのところへ、会長の令嬢が訪ねてくるところから物語が始まる。この社は、いわゆるロボットをつくっている。
 ロボットは、労働に使われる道具であった。それは化学的に造られる。機械ではない。この点、作者は後に、ロボットが機械として扱われていくのが我慢ならず、かなり吠えた文章を記している。この中公文庫には、付録として、こうした後のチャペックの短文記事も掲載されていて、興味深い。
 会長令嬢のヘレナは、ロボットにも心があると考えている。それでロボットの権利を守ろうと意見を言うのだが……。
 ロボットの登場で、人間は労働をしなくてよくなり、社会は理想的に形成されていく。
 ヘレナは求婚された取締役と結婚し、十年後が次の幕となる。ただ、人類は子どもが生まれなくなっていた。人間は何もしなくてよくなったため、そうなったのではないだろうか。
 そんなある日、ロボットたちの反乱が起こる。人間は一人を残して滅ぼされ、ロボットの世となる。
 しかしロボットだけでは増殖できない。人間の手が必要だったのだ。この一人生き残った人間・アルクイストは、アダムとエバを送り出そうとする。いわば創造神となるのだったが、果たしてこの後ロボットはどうなるのだろうか。すべては想像の中である。
 チャペックは、チェコの作家。疫病による騒動を描いた『白い病』を私は先に読んでいた。面白おかしいのだが、その中にぐっと考えさせるものがある。つまりは社会の深層を描いているのだ。その意味では、この「ロボット」の話も、社会を痛烈に皮肉なまでに描いている、というと間違いだろうか。もっし真摯に、人類の失敗を指摘しているということで留めておくべきであろうか。
 本作品は1920年発表。独立したばかりのチェコには、ロシア革命の影響があった。ここには、労働者のことが問題視されているというふうに見るしかないだろう。労働者はロボットなのか。そして革命を起こすことが必定であるのか。しかしそこには心というものが、あるのか、ないのか。
 歴史を深く探らないと、その表しているものを指摘することはできないだろう。だからちょっと読んだだけの私がとやかく言うことはよくない。だが、どこかクスリと笑うような言葉や展開を楽しんでいる中で、どうにも居心地の悪い気がしてくるのはどうしてだろう。なんだか、これではいけないという気持ちに襲われてくるのだ。  私たちは、ロボットのように扱われているのではないか。そしてまた、誰かをロボットのように扱っているのではないのか。組織の道具として消費し、だめになれば取り替えればよいと考える経営者。いや、東京オリンピックの会長問題では、自民党幹事長が、ボランティアがやめるなら新しいのと取り替えればよい、という主旨の発言を平気で行っていたのを覚えている人もいるだろう。
 私たちはロボットとして扱われたのである。だから、反乱も一部起こったが、それでがたつく組織ではなく、政治ではなかったということなのだろうか。
 作品中で、子どもが生まれなくなる、ということもかなり強く響き、ひきずっていた。何かをここから受け取りたいと思うが、言葉が見つからない。あるいは、幾つもの問題がここから想像できる、ということにしておくとよいだろうか。労働を道具なるロボットにさせていくとき、人は人でなくなっていくのかもしれない。
 もう一度確認しておくが、このチャペックの「ロボット」は、機械ではない。発行の三年後に初めて日本語に訳された本作品の邦訳は「人造人間」であった。メカニカルではなくケミカルな製品であることさえ押さえておけば、この訳はなかなかよいかもしれない。命というものについて叫ぶこの作品においては、人が命をつくるという視野をも含んでいるのかもしれない。これが1920年に発表されたということは、つくづく驚くばかりである。
 いわゆる「ロボット工学三原則」というものをアシモフが提示するのは、チャペックから30年後。ずいぶんとメカニカルなものに転じてしまったが、ついにその後半世紀、ロボットが機械のものとしてだが現実的なものとなって活躍するようになった。私たちは、当初の、「人間の問題」として、こうしたロボットのことを見ているだろうか。ロボットの原点に戻ってから、もう一度チャペックの言おうとしたことに思いを馳せながら、人間と労働や社会について、考え合うような営みはできないだろうか。




Takapan
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