本

『宗教哲学入門』

ホンとの本

『宗教哲学入門』
量義治
講談社学術文庫1875
/\1100+
2008.5.

 もともと放送大学のテキストとして作られたものが、一般に提供されたという形になっている。そのため若干時代は遡るが、さほど古いという感覚はない。熱の入った、しかも著者の生涯を懸けた内容となって読み応えがある。
 量義治氏といえば、カントの研究家である。しかし、哲学者カントを扱いながらも、その背後に、自身の信仰、そして無教会派などへの尊敬が随所に現れていた。それが、年齢を重ねるにつれ、ますます信仰を表に出すようになってきた。そのため、この「宗教哲学」という名前の書ではあっても、実質キリスト教を主軸として展開する内容となっている。
 それでも、である。ここには、仏教とイスラム教についても大きく取り上げられ、またかなり詳しく検討されている。その道の専門の方からすればまだ皮相的であろうし、時に批判めいて扱われているところも不本意であるかもしれないが、大きく偏見に基づいたという印象は見られない。キリスト教がよくて他がダメだ、というような扱い方はされていない。キリスト教のサイドから解釈する気配はないわけではないが、タイトルの宗教哲学という言葉に恥じるような内容はないと見てよい。
 また、宗教と掲げておきながら、この三つの宗教しか扱っていないことについても説明がある。これらは、民族的な制限を廃した宗教の在り方をもっているからだという。民族内に留まるものも宗教には違いないが、普遍的な何かを有しているかどうかと問われると、一歩下がってしまうことになるだろう。そこへいくと、世界宗教と呼ぶことも可能なこれら三つの宗教は、たとえば仏教のように現在の世界的な勢力からすれば貧弱にすぎないものであっても、広く人間一般に救済を与えようとする思想であるからには、ここで扱う価値があるのだ、とするのである。
 しかも、現代性を重視する。この近代から現代への思想や空気の流れは何か。私たちはどういう時代状況の中に置かれているのか。不安などの漂うこの時代に、救済はいかにあるべきか。宗教はその救済をいかにして与えるのか。
 カント学者らしく、いくつかの問いを立ててそれに挑むように構成があり、かなり哲学的な展開が事実ある。しかも、自ら尊敬する向きでもあろうが、西田哲学あるいは無の哲学とされる日本における哲学を十分に踏まえ、あるいはそれから宗教を解釈するという方法もとられている。そのため、読者ないし学生は、かなりな思想背景を理解しておく必要がある。また、「絶対者」ないし「絶対」という語について、哲学的な読み込み方をしないでは、途中から何も分からなくなる虞さえある。表面的には、まるで禅問答のような(などというと禅の関係者の方には失礼千万なのだが)言葉が続いていく。もちろん、これは西田幾多郎に始まる日本の宗教哲学や哲学思想からすれば、常道なのであり、訓練された人々から見ればどうということはないのだが、その思想をここで紹介し解説するのが目的であるわけではないので、本書はあまり親切にその辺りを解説しているわけではないことを弁えておく必要があるだろう。
 印象としては、学的な著作というよりは、学生に説く内容であるに過ぎず、しかし、著者本人の信念と信仰が関わっているので、いい加減な述べ方や研究をしているわけではないことは明らかである。しかもあくまでもこれは哲学であるから、論理で切ろうとしているゆえに、時に、宗教的信念が妙に理屈っぽく語られて、あるいは無理やり理論で表現しようとして抽象的になりすぎているのではないか、と思われるふしもあるが、これはやはり哲学であって、宗教のうわべをなんとか理屈で捉えられる限りにおいて語ろうとしているのだ、というように捉えることによって、カバーできるものと思われる。つまり、これが宗教というものではないのだ。宗教をなんとか苦労して言葉で解き明かそうとすると、このようになるのだ、というひとつの見本であるし、宗教への入口のひとつであるというように理解しておきたい。
 その意味で、やはりこれは、放送大学のテキストなのであり、そのために適した労作であると言えるだろう。小さな本ではあるが、索引も整備されており、一度読んだ後でも役立つようになっている。このあたり、やはり学術の基本を備えているといえるだろう。




Takapan
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