本

『日本聖書協会「宗教改革500年記念ウィーク」講演集』

ホンとの本

『日本聖書協会「宗教改革500年記念ウィーク」講演集』
H=M・バルト/江口再起
日本聖書協会編
日本聖書協会
\500+
2018.1.

 ドイツの宗教哲学などの名誉教授で日本で教鞭を執り仏教にも造詣が深い、ハンス=マルティン・バルト氏と、ルーテルの神学校の教授でもあり日本のルター研究の中心的人物である江口再起氏との二人の講演が記録されている。2017年9月18日と20日に、これらの講演は行われている。
 バルト氏は「現代世界における宗教改革の意義」と「ルターの十字架の神学の今日的意義」という二つの講演を、江口氏は「贈与の神学者ルター」について語っている。
 バルトの最初の講演はこう告げます。人々は、宗教など不要で、そのほうがうまくいくのではないか、と考えるようになってきている。その中で宗教改革を問う。ルターはいわゆる「のみ」を掲げたが、現代で必要なのはむしろ包み込むような動きのほうではないか。こうした動機から、ルターの神学の5つの概念を問い直していく作業をしている。そうして、現代社会においてルターの神学と改革から学ぶべきことへとつながっていく。そうして、人類へ与えた意義を、新たな社会的実践へと聴衆を誘う。それは、孤立や離反ではなく、統合や連帯の方向を目指すもののようである。最後のこの理想の姿は端折った感じではあるが、講演者がどちらを向いているのかを明確に示す。未来への希望を抱く講演となっている。
 ルターの神学の中でも特に「十字架の神学」について、もう一つの講演で深めている。確かに、キリスト教会においても、神は優しい方で何でもありのままに赦す、というような側面を強調する傾向があるように見受けられる。かつて日本の教会では、修練の如く、自らの罪と向き合い、「道」を極めるような歩みが当たり前のように見られていたように思う。しかしその反動からか、もっとおおらかに、神の祝福と喜びという点で解放される福音が、人々に受け容れられやすいようにいつからか変わってきた。どうかすると、それしか知らずして教会で信者となっている人さえいる。それが若者に限るようなこともなく、教会の役員となるような人でもそうだし、へたをすると牧師でもそれがありうる。しかし、どういう教えであれ、偏っていくときに、とくに基盤を忘れて流されていくときに、様子がおかしくなる。ルターは十字架に的を絞った観点を忘れはしなかった。私たちの価値観の見直しを図らなければならない。そうして、現実を新たな仕方で見ることができるようにならなければならない。
 ルターを見直す作業ではあっただろうが、教会のなすべき原点に目を向けさせるに相応しい内容であるように思われる。
 講演原稿ではあるが、本書では注釈が入れられており、出典については確認することができる。親切な編集である。
 最後に江口再起氏が、9.11と3.11を契機として、「義認」を誤解なく捉え直そうと構えます。そして現代思想への哲学者たちの貢献にもっと注目すべきだとして、「贈与」という概念を踏まえて神の恵みを見つめようと提言するのである。こうして信仰は、実は私たちが共に生きることへ進むために用いられるようになる。私たちは一人のキリストとして生きていくのだという力強い言葉は、神から贈り物をもらった私たちが、隣人へ今度は贈るようにと導かれている、前向きなあり方へと押し出すものとなってゆく。こうしてルターの言葉であるかのように言われている、あのリンゴの希望は、やはり私たちが掲げていくべき生き方ではないだろうか、と結んでいる。
 薄い本ではあるが、文字は小さく、分量的にも読み応えがある。もちろん、その内容は傾聴に値する。いや、宗教改革から500年という節目に巡りあった現代の私たち一人ひとりが、腰を据えて取りかからなければならないはずであろう。他人事ではない。キリスト者として、私たちは確実にその輪の中にいるのである。カトリックとルター派がお祭りで盛り上がっている、そういうことではないだろう。ルターの神学にそれほどに共感を覚えない人であるにしても、だったら逆にここで批判されているような形で暴走していないか、道を外れていないか、よく振り返らなければならないと強く思うのである。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります