本

『Q資料注解』

ホンとの本

『Q資料注解』
D.ツェラー
今井誠二訳
教文館
\2600+
2000.4.

 1984年に登場した本書の原盤は、キリスト教研究に多大な影響を与えたという。
 19世紀、新約聖書の福音書のうち、マタイとルカとに共通な部分が多いが、その背景に共通の資料があるのではないか、という考え方が起きた。もちろんそのような資料が見つかっているわけではなく、あくまでも仮定である。そのため最初は殆ど誰も見向きもしなかったのだが、シュライエルマッハーが、マタイにより集められた資料の存在を現実的に考えたことから、この問題が真剣に取り上げられるようになったようである。つまり、共観福音書と呼ばれるマタイ・マルコ・ルカが確かに共通項の多いものであるが、そのうちマルコが時代的に初めに著され、それに加えて別資料により再編集されたのが、マタイでありルカである、というのである。この捉え方は、概ね現在の研究者に常識とされ、広く認められるものとなった。
 やがて、ドイツでの取り上げ方から、Quelle(源泉)という語の頭文字を用い、Q資料と呼ばれるようになり、恰も規定のものであるかのように想定されるに至った。
 本書は、その過程と、取り扱いの注意に触れた後、その殆どを、「注解」に費やす。およそ「注解」としては初めてのものであるらしい。いったい、そもそもが仮説的存在であるものに対して、注解も何もないだろうという気がしないでもないのだが、マタイとルカの共通記事を取り上げ、それを比較対照し、元来このような形で資料が成立していたのではないだろうかという推定により、一つひとつの記事を検討していく。あくまでも仮定の世界にはなるにせよ、私たちが調べて参考にするにはたいへん便利である。
 洗礼者ヨハネ・荒野の誘惑・弟子たちとの出会い・百人隊長、というように注解は展開し、こうして見渡してみると、両福音書に共通する記事が、初期キリスト教における重要な理解のポイントであったということに改めて気づかされるものである。いったい福音書は何を書いているのであるか、それについての一定の回答ということになるであろう。
 ここは、マタイとルカの共通資料という世界である。十字架と復活の記事は取り上げていない。イエスの地上での旅において話したことを概観する思いである。つまり、この「資料」というものは、元々は「語録」と呼ばれていたものである。本書も元のタイトルにはその「語録資料」というものが冠されていたが、邦訳書としてはいま通用している「Q資料」という形で出版した。これらは「語録」である。イエスの語録が教会に保存されていた。断片的であっただろうと思われるそれを、編集して福音書という形にしたのがマルコであったが、マルコとは別に、さらにそれを補うかのように付け加えられた語録の出所というものがこのように想定されたわけである。
 福音書とは何であったか。もちろんイエスの生涯を辿る者であり、十字架と復活というクライマックスへ向けて綴られたイエスの記録である。だが、パウロにその傾向があるが、そこばかりを強調すると、いったい地上を旅したイエスの出来事は何であったのかという疑念に包まれる。それはなくても良かったのか。あまり重要でなかったのか。いや、そんなことはないだろう。ここにある資料は仮説的なものに過ぎないが、イエスが遺した言葉の資料が、信徒の支えになっていたことは想像に難くない。福音書というまとまった形でそれがさらに編集されて遺されたのは、幸いなことだったと言えるだろう。
 私たちは本書により、改めてイエスの言動に注目させられる。そして、福音書を読み解こうとするときに、イエスが何を言ったのか、そこに目を向けさせられる。福音書を、そのような角度から読み直すときの指針としても、この注解は有意義であろう。十字架の意味、それはもちろん最高度に知るべき事、信仰の核心である。だが、イエスの歩みにじっくり従っていくということは、私たちの信仰生活のためにきっと必要なことである。忘れてはいけないことである。
 もちろんここには、クリスマスの出来事もない。それでいい。私たちは、イエスにどのように従うか、その教えの言葉をもっと求めたい。私たちが主体になったかのようにして、聖書を解釈するというのではなく、聖書から、言葉を聞きたいからである。
 文献資料もふんだんに載っている。ここからまた、研究する人にもよい指針が与えられ得るものだろう。そのように、やはり聖書研究のためのひとつの礎石としての役割が本書にはあったわけだが、どうしてどうして、信仰を期待する信徒も、大いに役立つであろうことを、私は確信する。
 ラインは引いた。ラインは、また見返すことにより、意味をもつ。ぜひまた見直すべき本である。




Takapan
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