『カルチェ・ラタン』
佐藤賢一
集英社文庫
\819+
2003.8.
歴史小説とでもいうのだろうか。本書の舞台は、16世紀のフランスはパリ。カルヴァン、ロヨラ、ザビエルといった面々が揃う中で、本書は一貫して、「ドニ・クルパン回想録」という体裁をとっている。この人物も実在であったらしいことは、ようやく最後の解説で知ることになるのだが、さすがにこのような人物設定は眉唾物だ、と分かりそうなものだ。
それでいて、「序」というものがまたいかがわしい。「日本語訳の刊行に寄せて」と題されたところに、本書の経緯が尤もらしく書かれているのである。時は2000年、クルパンの名を継ぐ侯爵が綴っており、その先にご丁寧にも、この「回想録」が1828年に発行されたときのフランス語原本よろしく、古めかしいデザインの扉が印刷されている。その裏側には、それを日本語に直したものまで儲けられていて、「王立書店」の発行だなどと明示している。
そこからすぐに、「一」が始まる。その標題は、「私こと、ドニ・クルパンがガーランド通りの印刷屋を訪ねること、ならびに生涯忘れられない恥をかくこと」となっている。この調子で、こうした長い標題の章が、最後の「四十」まで続く。
この「生涯忘れられない恥」というのは、いきなりのシーンで恐縮だが、ミシェルを訪ねた、パリ夜警隊長ドニ・クルパンが、扉を開けたときに、「マルトさん」という未亡人の女性の「おっぱい」を見てしまったことをいう。ドニは童貞であった。成人女性の胸も見たことがなかった。二十歳を過ぎてはいたが、女性に対しては理想像を抱くだけの男だった。ミシェルは、三十くらいの年齢だろうということだが、ドニの家庭教師をしたことで、友人のような関係になっていた。ソルボンヌ学寮の学僧であり、パリ大学神学部きっての俊才である。その恋人が、その「マルトさん」であった。
やがて、このミシェルの周辺で、怪奇な事件が次々と起こる。その度に、ミシェルは事件の謎を解いてゆくのである。ドニは、夜警隊長として捜査に携わっていたわけだが、頭脳明晰なミシェル――それを「マギステル」(先生)としばしば呼ぶ――に助けられることになる。
私は読むうちに、これはシャーロック・ホームズとワトスンではないか、と感じた。もちろんキャラクターとしてはずいぶん違うが、ワトスンの役回りをするドニ・クルパンがこの物語を綴ったということになっている。マギステルは、いかにもホームズのような冷徹なところがあるのだ。
しかし、このミシェルは、相当な女たらしのように描かれている。そして、学僧ということは、キリスト教の神学部のエリートであって、将来は出世が見込まれていることになる。神について語ることも度々あるが、どうも描かれ方は、酷く不埒である。ただ、神学的な筋道を通して話をするため、ドニは批判などできない。「マルトさん」とはもう別れたようであるが、「おっぱい」を見て以来、童貞のドニは、「マルトさん」が気になって仕方がない。しかし、キリスト教徒として、そういう思いは振り払わなければならないと悩んでいる。こちらの方が、よほどクリスチャンとして優秀な精神である。
こうして見てくるとお分かりの通り、物語は何か倒錯に溢れ、皮肉があちこちに隠されている。そのうち、ミシェルにはナタリーという美貌の修道女と関係があるような書き方がなされてもゆくのだが、このナタリーは、元高級娼婦であったともいう。
途中、童貞をミシェルがからかうなどは当たり前で、当時生まれたコンドームなるものの話や、それを遣うのはカトリックでは罪だというようなやりとりもあり、性的には相当に乱れた方向に物語は流れてゆくことになる。
また、プロテスタントの悪口も随所にあるのだが、それは彼らがカトリックの側に立っているからであり、だからこそ避妊は罪となり、また後にトニ・クルパンが怒りに任せて「殺す」などと息巻いたときにも、神学的な言葉が零れるようなこともあった。
さて、このミシェルには、ゾンネバルトという師匠がいる。何かしらいろいろな事件に、このゾンネバルト教授が絡んでいるのではないか、という辺りから、だんだんと物語が転がり始めるのだが、これもまた、モリアーティ教授とホームズの対決を彷彿とさせる設定である。
当時の実在の人物や、神学的な問題を絡めて、本当にこれは実在の出来事ではないだろうか、と思わせるに十分な、エンターテインメントがあって、読者は騙されたふりをしながら愉しむ、というのが、きっと一番良い味わい方なのであろう。
そもそもこの「カルチェ・ラタン」というのは、「ラテン語の街区」という意味だと「二」で説明があり、「教師や学生が学問用語のラテン語で、喧しく議論したことに由来する」と書かれている。殊に神学を本書は舞台とするが、凡そカトリックの学徒を冒涜するかのような描き方が、たとえフィクションでも、実在の人物名を交えて展開しているとなると、カトリック教会の方から何かクレームや声明などなかったものだろうか、と案ずるほどである。
本書を私が知ったのは、最近読んだ『キリスト教綱要 初版』によってである。その「訳者あとがき」の一行目で、深井智朗氏が、この『カルチェ・ラタン』の名を出していた。2頁少々のこの「訳者あとがき」の、最初に1頁を、実にこの本の内容で潰していた。物語に登場するカルヴァンの著書について、ミシェルが感想を述べているシーンがある、というのである。そしてミシェルが、知識人には物足りないが、一般人には難しすぎる。だが、教養人には適度だろう、と評したことまでが書かれていた。
そのために手に取った『カルチェ・ラタン』であったが、いやあ、これほどふざけたストーリーだとは、思いもよらなかった。この「ふざけた」は非難の言葉ではない。歴史をよく知る人だからこそ、リアリティの寸前まで読者を連れて行く力を以て、笑わせてくれる、という意味である。但し、信仰者を茶化しているようにも見えてしまうことから、表面上のことから隠された真摯な人間の生き方や問いというものへと目を向ける訓練のできていない人々にとっては、発禁書にしろという怒号が来てもおかしくない描き方になっている点は、否めないと思う。

た
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