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『プラトンの呪縛』

ホンとの本

『プラトンの呪縛』
佐々木毅
講談社学術文庫1465
\1100+
2000.12.

 ふと何かの本を読んでいて、参考文献に挙げられていると、その本が気になるということがある。本書との出会いはそのようなものであった。第9回読売論壇賞・第11回和辻哲郎文化賞受賞作であるという。著者は法学部で政治学や政治思想史を専門としている。だから、プラトン哲学を文献に基づいて解釈しようなどということをする訳ではない。西欧に置ける政治思想において、プラトンがどう理解されてきたかを私たちの目の前に提示するのである。
 発刊は元々1998年である。20世紀をどのように把握し、振り返るか、という関心から出発した歩みが綴られている。20世紀だけに絞られた論究ではないが、結局はそこでの、自由民主主義と左右の政治思想との対決を描くこととなった。特に私たちが当たり前のように享受し、人類の政治機構はこれしかあるまいとすら新報している、自由主義あるいは民主主義なるものが、果たして盤石であるのか、いやそんなことはない、実に脆弱な基盤の上にあるかを指摘しようというのである。そのため、プラトンという西欧思想の源流とも言える哲学思想が、なんと気ままに、自分のために都合のよいように利用されてきたかを暴露するのである。
 どの視点に立つかで評価は違うだろう。プラトンの身になってみれば、ギリシアのポリス国家の中で懸命に築いた理想国家の思想が、なんとも意図したものとは違うように利用され権威づけられてきたことかと嘆くかもしれないし、あるいはそんなことはお構いなく、よくぞ自分の本を大切に扱ったくれたものかと喜ぶのかもしれない。自然哲学はともかくとして、西洋哲学の基盤はなんといってもプラトンにあるのだし、あるいはそのプラトンに反発するかのようにしながらもどこか共通な地盤の上で博学を究めたアリストテレスの哲学にしても、西洋思考の基礎として現にある以上は、様々に解釈され、また適用されてきたことは否めない。
 幾人かの思想家がプラトンをどう理解したか、とくにナチス体制の下でこんなふうにも捉えられ利用されたのだということを含め、本書はプラトン一色に染まりながら展開していく。
 ここで予備知識のない方のために簡単に触れておくと、プラトンは、ソクラテスを主人公にした「対話篇」と称される多くの哲学書を遺しており、その哲学は、西洋思想の源としてそこに全部が詰まっている、と評した人もいるほどの価値をもつ思想と見られている。真理とは何か、知識とは何か、当時ソフィストと呼ばれる知識を教授する者たちに大してソクラテスは、本当の知とは何かを問いかけて相手を動けなくさせていく。そして自分が何も知らないということを知っている自分のすること、すなわちどこまでも知を求めて愛して問い続けることの意味を強調したが、その知を愛すること、という表現がそのままフィロソフィア、つまり「哲学」という名になった経緯がある。しかしその活動が青年を惑わすと訴えられ、裁判にかけられ、いわば無実の罪のためにも、悪法もまた法なのだと毒薬を煽り死ぬという生涯を送る。このあたり、イエス・キリストの死と並行して理解可能な構造があるようにも見受けられる。もちろん、ソクラテスに復活というものはないのだが。
 このようにして、プラトン哲学は、当初「〜とは何か」と、いかにも哲学の問いとして突き詰めるような営みとしていくつも書かれていくのだが、プラトン自身は、実は政治的野望があった。自分の掲げる理想社会を実現したくて、地域の王(当時は都市国家)に話をもっていくが聞いてもらえない。ついに政治的実現は諦めるけれども、『国家』という大作をつくり自身のもつ理想国家(繰り返すが当時は都市国家)の正当性をソクラテスを通じて掲げるということを行う。こうなると、歴史上のソクラテスがそのように語ったなどと考える研究家はもはやおらず、プラトンの考えをソクラテスというキャラクターに語らせているものと理解されるしかなくなる。
 プラトンは、当時のアテネなどの民主制を批判していた。当時は直接民主制だったものだから、要するに政治的に無知であったり扇動されやすいような民衆もまた、市民でさえあれば政治に直接参加できた。そういう民主制を、プラトンは愚衆政治だと批判し、優秀な頭脳や人格の持ち主が掲げる理想の社会を実現するために、一人ひとりはある意味でロボットのように仕える、それが良い社会を形成することになるのだ、と説いた。女子どもは共有制にして社会全体で子孫を育成するのが効果的だ、ような国家制度まで話の中で決めていくのである。
 お気づきだろうと思うが、これを利用すれば、全体主義や独裁制を見事に支援する思想となりうる訳である。そのため、哲学の祖、哲学の権威としてのプラトンが、野望ある政治家にとって、利用価値の高い古典となるのである。
 著者は丁寧に、20世紀のそうした扱いについて説き、何が危なかったのか、どこでうまくプラトンの思想をずらしこむことができたのか、見定めようとする。こうしたことを検討するというのは、大切なことであろう。だから、プラトンはいまもなお、あるいはいまだからこそ、人類に警告を与え続けているのだ、ということを読者に了解してもらおうとしているのだと言えよう。私たちは豊かな社会を実現してしまった。そして一人ひとりが自由を権利として有しているという共通理解が成り立ち、いろいろ選択が自由にできるという政治参加を可能にしている。しかし、多様性を認めるその自由の中に、問題があるのだ、ということを、プラトンは見抜いていた。それは確かである。だから全体主義がよいのだ、とするのではなく、さしあたり人類が辿り着いたひとつの見晴らしのよい地点、自由民主主義という社会が、もう決してナチス体制のようなものに支配されないために、またそのような思想に多くの人が染まらないために、どうすればよいのか、プラトンはいまも呼びかけている。私たちはその問いに答えるべく、いまここにいるのである。




Takapan
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