本

『哲学思想史』

ホンとの本

『哲学思想史』
淡野安太郎
角川ソフィア文庫
\960+
2022.2.

 1902年に生まれ、1967年に没する。著者は、哲学の教授としての人生を送る。もちろん本書は、1949年に最初に出たという古い歴史をもつ。書かれてある哲学史にしても、その時代から先へは進むものではない。それが今回、文庫として復刊された。
 本の帯にあるように、佐藤優氏が、「復刊を熱望し続けた名著である」という宣伝で、70年の時を経て世に問うこととなった。佐藤氏は、このことを「解説」で述べている。そこでは、学者には二つのタイプがある、とまず語る。学問的業績や新説を生むタイプと、教育に熱心であるタイプとである。淡野先生は、その後者の代表のような方であるという。ただ、教育のために労力を尽くした人の書いた教科書というのは、時代と共に忘れられていく傾向にある。だから、そのすばらしい教科書を、いまに蘇らせることには、大きな意味がある、と言うのだ。
 本書はサブタイトルに「問題の展開を中心として」とあるが、それは別の表現で言うと、「通読すればよい」ということなのではないかと理解してみる。事実、著者自身「緒言」を、まず「通読できる哲学史」を本書は念願とするのだというところから始めている。それから、「哲学思索史」という題にしようかと考えたことが明かされている。それは、「古来からの先哲の施策の跡を辿りつつ、先哲と共に考えること」を大切にし、それが「哲学的に考えること」を学ぶのでなければならない、という狙いからであるという。ただ、別に「思想史」という名をつけた姉妹書から、これも「哲学思想史」をとった、というようなことが書いてある。
 非常にオーソドックスである。ギリシャの、ソクラテス以前の哲学から叙述を始め、ソクラテス・プラトン・アリストテレスという王道を外さない。ただ、ストア主義とエピクロス主義についての説明を「自由の問題」という見出しで展開しているのは、私を驚かせた。この時代、自由という語が哲学のテーマになることはなかっただろう。だが、現代の私たちがこの時代の思想を理解しようとするとき、これを自由の問題として辿ることは、確かに面白い。
 中世哲学に入ると、やはりそれはキリスト教の思想であるということを押さえておかなければならないだろう。それが、普遍的なものの存在を、教会が教義的にもどうしても必要としたはずだという点を指摘した上で、普遍論争の解説を始める。それがトーマス・アキナスで中世哲学はひとつの完成に導かれるのであるが、教会を救おうとしたあまり、決定論に傾く危機に陥り、意志の自由が求められていくとなると、教会の存立を危うくする方向に思想が進んでいったという点を指摘する。宗教的なものを哲学で説明しようとすることの無理が、ここに明らかになったということで、近世哲学に入っていくのであった。
 このように、時代で区切ることのできない、自然な流れに注目させて、次々と思想の流れに読者を乗せていく。実に巧みである。
 すでにお気づきだと思うが、私は今「ギリシア」や「トマス・アクィナス」と書くのを自然としているけれども、本書ではそうではなかった。これは当時の仮名書きの常識として、今とは違うものが多数あるためだが、本書は著者の当時の書き方を尊重している。但し、これがその後どのような表記となったかについては、括弧付けで説明されている。時折、私の懐かしい響きの仮名にも触れることができて、楽しさも感じた。「フッセル」などというのは、古書には必ずそう書いてあったのだった。
 近世哲学でも、「合理論」は本書では「唯理論」記されているが、哲学を少しでもご存じの方には、迷う可能性はないと言えるだろう。カントはやはり大きく取り上げられ、それがどうしても二元論的であることから、ヘーゲルへ向けて一つに流れていくのはやむを得なかったこと、それからまた、カントに帰れの合言葉にもあるように、新カント派が現れる。執筆当時は、その影響がまだ大きかったかのようである。著者はコーヘンなどに多大な期待をもっているように見受けられる。今の哲学史だったら、コーヘンなど、持ち出す人のほうが珍しいだろう。
 著者は、綜合的精神に、今後の哲学の可能性を求めて、筆を擱く。どんどん分化していくような時代の動きに抗うかのようでもあるが、どうだろうか、あいにく分化はその後も進んでいないだろうか。かといって、安易に綜合でひとつにくるんでしまうことを待望するのも、私はどこか危険であるように思われてならない。時代の空気をひとつに染めていくようなものがあることが、人間世界に健全であるとは、どうしても思えないのだ。
 ともかく、通読に優れた教科書として、本書は確かに優れている。読み物として愉しんで下さるだけでもよいから、人間のものの考え方の歴史を、ひとつのオーソドックスな道ではあるけれども、心得ることは、どうしても必要だと考えている。
 キリスト教の語り伝えられる牧師たちの中に、実は多くの、哲学科の学生がある。それが、キリスト教を筋金のあるものとして育んできたのだ、と私は捉えている。いま、哲学を学ぶ牧師が少なすぎる。それが、何かおかしな世界に迷い込んでいる、ひとつの背景であるように、私は漠然とだが、感じている。学んでくださらないだろうか。




Takapan
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