本

『哲学入門』

ホンとの本

『哲学入門』
戸田山和久
ちくま新書
\1000+
2014.3.

 ベタなタイトルを堂々と出してきた。サブタイトルすらない。だが、その毒気づいた内容は、知る人は知るだろうし、少し開いてみればすぐに分かる。いや、失礼に言い方をした。悪い本ではない。むしろ、読者の思考力を強めてくれるし、十分に面白い。分かりやすさという点でも、なかなかのものであろう。
 特徴としては、まずその文体である。人によっては、ふざけたお喋りだと渋い顔をする読者もいるだろうし、逆に親しみやすいと思う人もいるだろう。好みであって、受け容れさえすれば、読むのに支障はなくなる。
 ただ、やはり思う。この題でよかったのだろうか。というのは、唯物論に徹し、自分がテーマを解読していく経路を綿密に語り続けるというスタイルであるからだ。もちろん、それもまた哲学である。だが、「入門」であるのかどうか、そこが気になるのだ。
 著者は最初の「序」で掲げる。「ありそでなさそでやっぱりあるもの」について考察するのだ、と。この日常語の中でも砕けた言い回しで取りかかるというのは、拙いことではない。どだい、哲学用語を、気取って着飾った訳語にしてしまったことで、哲学は思考の海を離れ、ファッションにすらなっていったという近代日本の思想の姿がある。本書のテーマはこの点で落ち着いているし、そうした徹底性が、読みやすさの一つの要因であることは事実なのだ。
 しかし具体的に取りかかりをもたないと議論は始まらない。著者が問うのはまず「意味」である。意味の意味を問うという、洒落にもならないところから入るにしても、それにまつわる問題点が流れていく様は見応えがある。その後、機能・情報・表象・目的というように、気になる概念の道を進んで行くが、その道を覆う枝や蔓を払いながら、様々な事柄を取り扱っていく。これはひとつのアドベンチャーゲームのようである。
 やがて、ここに議論をもっていきたかったのだろうと思しき、自由と道徳の森に入る。ここは議論としても特にまとまっており、デネットという哲学者を味方につけるような形で、大乱闘が始まる。デネットは、自由と心について力強い意見を出した人であるようだが、ここからの冒険は、この強力な助っ人を大いに頼りにして展開していく。出会う強敵たちに対して、二人して挑んでいくというよりも、デネットにすっかり頼り切って戦いに勝利していくかのようでもある。
 すべては決定されているという物理的な見解では、自由は成り立つまい。と、そこに実は思考の落とし穴があるのではないのか。一種の決定があるにしろ、人生に意味がないということはないのだ。著者の最後の章は、なかなか味わいがある。ともすれば、悲観論につながりやすい思考経路が、見事に逆転にかかる。
 私は著者の物事の捉え方にはそのまま賛同はしない。そこには、自分と世界との対峙の厳しさはまざまざと感じられるが、自分と他者との関係の視点が殆どない。というか、全く考えられていない。それをもし倫理と呼ぶなら、この哲学入門には、倫理がないのである。他者から相対的に自分というものがあるという角度から考える余地がなく、ひたすら自分が世界を見つめているのであるが、そうだとしても、自分がいまここで思考していることがその世界に属しているのかどうかという点については、気にしていないように見受けられる。もとより「神」など眼中にないので、神との関係ということは議論に全く(話のついでにちらりと登場はするが)出てこないのは仕方がないが、ここでいう「哲学」が他者を気にすることなく突き進んでいるところから、論述の限界があろうかと思う。それでも、450頁近くある分厚さではあれど新書という制約の中で、一つの道を示してくれた点は流石である。その結論めいた「人生論」は、決して私の感覚と遠いものではないように感じた。まさか、どの麓から登っても同じ山だ、というような見解にはしたくないのであるが。




Takapan
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