『子どもの哲学 なぜ地球は丸いの?』
河野哲也・土屋陽介・村瀬智之。神戸和佳子・松川えり・小川泰治・李伽※(※にんべんに耶)
毎日新聞出版
\1400+
2026.2.
毎日小学生新聞の連載「てつがくカフェ」に寄せられた子どもたちの問いから、科学に関係の深そうな問いを集めたものである。だから本書の問答は、一見科学の話であるかのように見える。だが、科学ならばある程度まとまった結論が定まるものであろう。問いそのものは科学に関係するようでありながら、解答が一意とならないようなものが、ここには揃っている。唯一の正解というものを占めそうとするものではないのである。
そのために、本書には、一つの問いに対して、三人のスタッフの回答が並んでいるという特徴がある。三者三様に、それぞれの立場や考え方により、回答が異なっており、それが「哲学」と呼ばれる所以なのであろう。「はじめに」には、これらのスタッフを「哲学者」と呼んでいる。最近は「哲学者」という呼称が比較的ポピュラーになってきたものだ。いずれも、「子どもの哲学」と呼ばれる場に、何らかの関わりをもった人であるようだ。あるいは「哲学対話」という、流行の営みに関わっているというところであろうか。
小学生からの疑問である。その問いそのものが、問いたるに相応しく立てられているわけではない。いわば、ふと思った素朴な疑問である。あるいは、常々考えあぐねている問題だとしても、それをどのように言語表現してよいか分からないような有様である。否、もしかすると寄せられた疑問には、問いの背景などが長く記されていたかもしれないが、本書に挙げる時点では、もっと一般的になるように、短く素朴な形にしたのではないか、という気がする。だから、回答する側も、様々な可能性を踏まえて、答えを用意することができるわけだ。
「宇宙の終わりはあるのか?」といった問いは、子どもでなくても、誰しも問うたことがあるかもしれない。だが、「「永遠」という言葉は、どうして怖くなるんですか?」という問いはユニークではないだろうか。私はそこに、個性的なもの、文学的なものを感じる。「カウントダウンするとどうして人は焦るのですか?」は、子どもなりの体験の中で感じたことであるに違いない。大人になると、そうしたドキドキを感じなくなるものであろう。
しかし「なぜ時間というものがあって、誰が考えたのか?」となると、実のところ相当に哲学的である。回答のほうも苦労するかと思いきや、こうたことはむしろ「哲学者」ならば必ず用意しておくべき問題でもあるだろう、落ち着いた回答が見られた。それは、時間とはね、とは答えられない問題なのだ。妙に時間体験の描写で答えをはぐらかすような人もいたし、時間が存在しない世界を想像できないから、時間と世界の存在を同一視するようなふうに答えたのは、子ども相手には言葉を選び抜いた回答であったかもしれない。そして、時間を意識するのは人間だけではないか、というふうにも言っていた。三人目は今度は、時間そのものは存在しない、という、かなり突っ込んだ立場を目の前に見せてきた。人間の観念であり、いわば人間がつくったのだ、とするのだ。
このように、相談に対しては、明確な答えが用意されているのではない。正に哲学カフェで、誰かに反論することはしないが、それぞれの考えに傾聴する、というだけのわいわいと論じ合う雰囲気が設けられているようにも見える。「白は濃いの? 薄いの?」という問いは、傑作だ。そんなこと、普通大人は考えないだろう。もちろん、ここでいう「濃い」とは何か「薄い」とは何を謂うのか、といった点で、回答も異なるわけで、問いの中の言葉の概念を定義すべきであることは、哲学の議論を無駄に噛み合わないものにしないための常識であるのだが、しかし逆に概念を定めないでいる方が、様々な発想が飛び交って面白いのも事実である。私も確かに、牛乳の白の濃さと、乳酸菌飲料の白の薄さとは、違うような気がする。でも、多分私の中では問わなかったことだろう。
雨女は本当にするかどうか。カブトムシの餌やりを忘れないようにするにはどうすればよいか。妖怪とおばけの違いは何か。透明人間が本当にいるか調べてほしい。植物と動物、どちらが上なのか。――楽しい問題が並んでいる。答える側も、三者がいろいろなものの見方を提供してくれるので、なるほどそちらから見たらそう見えるのか、というように、大人も考えさせてもらえる。やっぱり、子ども向けの本に見えるものは、時に大人にとりとても刺激的で、たいそう役に立つものなのだ。そして実際、本書では、いくらふりがなが振ってあったとしても、時折思わず、哲学的な用語が鏤められている。小学生のための言葉を選び、例話を工夫しているのは理解できるが、それでもかなり「大人向け」であるように私は感じる。私は、大人のための哲学入門の一つではないか、と思っている。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
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