本

『アリストテレスの哲学』

ホンとの本

『アリストテレスの哲学』
中畑正志
岩波新書1966
\1060+
2023.3.

 岩波新書も歴史が長い。新赤版になっても、どんどん増え続けており、この先色が変わることがあるのだろうか、と外野からは妙な関心も集めているかもしれない。近年、哲学者や神学者などをほぼそのままタイトルにしたようなものが増えている。なにをいまさら、というような有名人物であるが、確かにこれまでそのような直球は、案外岩波新書の正面を向いて発行されていなかった。
 アリストテレス。哲学者の中の哲学者であるともいえる。カントも巨人かもしれないが、古代のアリストテレスは万学に言及しているし、神学にまで影響を与えている。「万学の祖」と呼ばれる所以である。しかし、著者も告げるように、もうひとつ人気がない。プラトンはその豊かな物語性から、文学的な点で近寄りやすい面もあり、実際哲学史におけるテーマ性からするとあちこちに噛みついていくことができるため、非常に人気がある。だがアリストテレスには、あまり文学性が感じられない。要するに見つかっている文献が基本的に講義録であるために、固すぎるのである。
 それでも、そこにアリストテレスの神髄がある。著者は、読者にアリストテレスを売り込もうと意気込む。そのためには、ありきたりの哲学の説明を施すようなつもりはない。どうすれば売れるか思案するビジネスパーソンのようである。そのため、最後の「あとがき」に告白しているが、著者自身が関心をもつところを中心に書き進めたのだという。すると、解釈が分かれて論争となっているようなところを敢えて描くことになったのだそうである。必ずしも、アリストテレスについての教科書的な説明にはなっていないかもしれない、と断り書きを入れている。
 だが、私たちは学ぶ点が多々ある。否、現代こそ、学ばねばならない。現に、「新しいアリストテレス主義」というものがあって、観念で世界を解釈するしかないのだ、というのではなく、実在から思索を展開していくことの重要性を考えるならば、いまここでアリストテレスを学ぶ意義があろうというものだ。
 哲学の中の哲学とでも言えばよいのか、「形而上学」というものがある。かつては、「タ・メタ・タ・ピュシカ」がどうして「形而上学」というふうに捉えられるのか、という定説のようなものがあった。「ピュシカ」は自然学のことなので、その自然学との関係について、おもに二つの説が紹介されていたのだ。しかし、いまではそれは幻のように、根拠のない解釈だとされているという。「われわれとの関係において自然学の後に続く」という、探究あるいは学習における順序を表していると理解すべきだ、というのである。なるほど、と思う。
 それにしても、アリストテレスの文献にはいろいろ曰くがついている。アラビア語からの翻訳がその文献の運命のひとつを示していることのほかに、真筆かどうかという点や、いつ編集されたかという点についても、なかなか難しい判定が必要なのだという。そうした事情も、著者にかかれば、分かりやすく説明するのはこのときだ、とばかりに、一読して把握できるように器用に説明してある。そう、本書は全般的に、非常に読みやすいのである。
 現実のものを観察し、触れ、そこから洞察を重ねる。いきなり天上の原理を見出したかのような素振りをせず、まずは目の前のものをじっくりと知る。アリストテレスの姿勢は、確かに私たち人間の奇妙な暴走を牽制することだろう。カルト宗教から身を守るために必要な手立てとなるかもしれない。空理空論にすっかり騙されて人生を台無しにしていく人々が後を絶たない。それは私の胸の痛みでもある。私もかつてそのような組織との関係があったためである。
 本書は倫理学という入口から、無理なくアリストテレスの本筋に近づく道が用意されている。Eテレの「100分de名著」でも、「ニコマコス倫理学」から入っていた。この入口はよいものだろうと思う。そこから自然学、魂といった方向に迫り、そこからようやく形而上学へと入る。確かに良い道案内であると思う。その最後は神学であったが、もちろんアリストテレスの神学は、キリスト教神学とは全く意味が違う。そこのところも、分かりやすく説かれていた。
 最後には、アリストテレスの全般を概観するようにし、あるいはアリストテレスがその後の哲学史でどのように捉えられてきたかを語る。難解な課題を、幾度も言うが、著者が非常に親しみある文章で語りほぐしてくれている。これで、アンチ・アリストテレス派が少なくなることを願うばかりである。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります