『パウロ――伝道のオディッセー』
E・ルナン
忽那錦吾
人文書院
\2400+
2004.3.
ルナンというと、福音的なキリスト教の中にいるとする人々の間からは、評判が悪い。19世紀フランスに現れたこの宗教史家は、あまりに合理的に描くそのイエスや聖書によって、大方の聖書信仰の立場からは煙たがられたかもしれない。だが一方、近代の神学の大きなエネルギーとなったことも確かであろう。
そもそもカトリックの聖職を目指していたのが、一気にそちらに転じたらしい。ニーチェよりやや世代が上だが、概ね重なる時代の中に生きて、ニーチェ自身も影響を受けているのではないか。たとえ反発を覚えたのであろうとも、ニーチェがルナンを読んでいることは確かである。ギリシア文化に注目したニーチェに対して、ルナンはギリシア語もさることながら、ヘブライ語も専門的に長けていた。
代表的な『イエス伝』は、奇蹟などを一切合理的に扱うということで知られているが、私はまだ読んだことがないので、これについては言えない。今回読んだのは、『パウロ』の方である。サブタイトルにある「伝道のオディッセー」は、確かに洒落ている。「オディッセー」とは、ギリシアの長大な叙情詩であり、ホメロスの作だとされている。ギリシアの文化人は必ずこれを知っていたものと思われる。
英雄オデュッセウスの漂泊の姿が描写されるその古典と、パウロの伝道旅行とを重ね合わせている、ということなのだろうが、そのパウロを、実に人間的に描いた点は、やはり先に見たようなルナンだということになるだろう。
冒険家でもあったルナンは、この執筆のために、パウロの旅の過程を実際に旅しているという。19世紀のかの地は、パウロと大差ない仕方で旅するしかなかったのではないかと思われる。このことは、私は「訳者あとがき」を最後に読んで初めて知ったのだが、ずっと読んでいる中でも、これは只事ではない、とは感じていた。というのは、パウロの旅を描くその筆が、あまりに現地の空気そのものであるのだ。まるで観光案内をしてもらっているかのように、土地の起伏についてはもちろんのこと、花や草、風のにおいまで漂ってくる、そんな書き方がずっとなされている。
もちろん、人物の風体や文化についても、描写が細かい。ほんとうにその地を連れて歩いてもらっているような感覚を知る。本当にパウロがそれを見ていたようである。
が、それにしても、聖書の背後についての知識や人の感情というものを、これほどに知り尽くしたような書き方をしてよいのだろうか、とも思えた。パウロの心の中については、普通言われているようなパウロ像とはまた違うかもしれない。ともかく、その現場に置かれた「人間」の見るもの思うものを、恰も小説の作家が神の視点でもれなく綴ったように、断言的に描ききっている。
パウロがイエスと出会ったことも、幻というくらいでは済まず、それがパウロの心の中の出来事だったにすぎない、とするあたり、信仰者からすれば不快な思いをするところも多数あるだろう。使徒言行録の場面を、そこまで事細かく説明し尽くすような情景描写や心理描写が必要なのか、と訝しく思うこともあるだろう。だが、もしそこを上手に読むことができるのであれば、これは十分楽しめる。確かにこれは、「オディッセー」と呼ぶに相応しいような、ひとつの活劇である。膨大な小説である。聖書を題材に、空想で埋め尽くし描いた文学作品であるとするならば、それはそれで面白いのである。
但し、これで信仰を養おうとするのであれば、あるいは、信仰が揺さぶられるかもしれないと怯えるならば、触らないでいた方がいい。喋りまくる講談師の声に苛まれるよりは、聖書の言葉の背後から聞こえてくる、あなたへの神の言葉に耳を澄ませるべきである。

た
か
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