本

『パウロの言語哲学』

ホンとの本

『パウロの言語哲学』
清水哲郎
岩波書店
\3360
2001.2.

 宗教の棚ではなく、哲学の棚にあった。それで、書店で必ずしも十分チェックしていなかったわけで、これまで私の目に入っていなかった本であった。だが、ここへきてギリシア語からパウロ書簡を紐解いてみるなどしているものだから、手を伸ばして棚から取り出したという具合である。
 第一章の「イエスの信」というテーマは、ほぼこの本全体を支配していると言ってよく、さらに第二章の「ディカイオス」にまつわることとで、著者の言いたいことはだいたいはっきりすると言うことができるだろう。だが私にしてみれば、その「信」のほうが、ずっとひっかかっているものであった。
 パウロは、「イエス・キリストの信」という言い方をする。通常の聖書は、これを「信仰」と訳す。さらに、原文にはない言葉をわざわざ補って、「イエス・キリストを信じる信仰」とまで書いている邦訳聖書があるこれは、補い過ぎである。原文にないものを補うということは、その補足が確定的であるときにしかしてはならない。ところが、この場合、確定しているとは言えないと私は思っていたのである。ギリシア語では、そこに属格が使われている。だから、原文のままだと間違いなく「イエス・キリストの信」なのである。これを「信仰」としてしまうと、キリストが信仰するというふうに聞こえるので不自然である。だから、「の」ではあるまい、と訳者たちは決めてかかっているのである。この属格というのは厄介で、日本語でも要するに「の」のつなぎは、様々な意味を持つ。「ぼくの本」ならば所有であろうし、「雨の降る日」ならば「が」であろう。「の」が「を」を示すことも、ないわけではない。「荷物の運搬」だと、「を」だと言えよう。属格においても事情は同じで、基本的にはどう理解するかは文脈上明らかであるから、いろいろ緩く使用できるということになっているわけだが、こと相手が古代のギリシア語となると、ネイティブでない現代人は、どう訳せばよいのか苦悩する。
 ともかく、著者もこのパウロにありがちな表現にまずこだわる。しかも、著者は哲学畑の人間である。哲学的手法を用いて、解釈の可能性を、他のパウロの思想やパウロの周辺あるいはパウロ以後の思想におけるギリシア語の用いられ方やキリスト教の理解の仕方などをも考慮しつつ、自分の納得のいく筋道を立てようとしている。著者自身は、巻末に記しているように、今は信仰者であるとは言い難いようであるにしても、長い間信徒としての活動もけいけんがあるといい、だからまた、信仰の立場も分かるし、当然専門の哲学の立場や方法も駆使できるという背景にある。このことから、実に意義深い取り組みをしてくれている、というふうに理解してよいだろうと思う。
 もう一つは、「神の義」という概念である。これについても、同様に食い下がり、著者の一定の信念あるいは信仰の理解に結びつけて整合的にまとめようとしている論文集がこの本である、と捉えてよいであろう。それは、元来の弟子たちの受けた福音から、パウロという天才による解釈を経て、さらにそのパウロを描いた使徒言行録の著者ルカがどう捉えていたか、そしてまた福音書が形成されていくときにどうなっていくものかを踏まえて、パウロの疑似書簡によりパウロが権威づけられ、しかもまたそこでパウロの或る側面が強調されたり、或る側面が無視されたりして、ついに教父哲学に流れていくという壮大な歴史ドラマがこの本で取り扱われている。とくに、フィロンの哲学が最後のほうで大きなポイントとして示されて、幕が閉じられる。
 言語哲学だけの分野しか知らないならば、とても最後まで耐えられる本ではないだろう。だがまた、自分の信仰を最高視する信者の思いこみだけからでも、とても読めるものではあるまい。だが、注意深く見れば、パウロだけが使う表現や、パウロが注意深く使用を避けている表現が、聖書の中にはあると言える。それを使ったのにも理由があるし、避けたのにも根拠がある。そういうところを睨んだ中で、福音とその変質をたどるというのは、信仰の歴史の上でも、そして私たちが聖書を信仰の書として受け止める場合にも、役立つものであろうと思われる。岩波書店であるが、へたに神学の権威による本であるというふれこみではないだけに、実際のところ、このフレッシュな追究に、しばらくつきあってみるのも悪くないのではないだろうか。まだ十全とは言えない取り組みではあるだろうと思うが、聖書を読み解くためにもよい思考訓練になることだろう。その意味で、学ぶところが多い本であった。




Takapan
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