本

『パウロ 十字架の使徒』

ホンとの本

『パウロ 十字架の使徒』
青野太潮
岩波新書1635
\821+
2016.12.

 岩波書店は、一時キリスト教関係の出版が盛んだった。実はそれは、編集者の考えによるものであったことを後に知った。クリスチャンではなかったのだが、キリスト教に理解があり、宗教思想の重要さをよく分かっていたために、岩波書店にて、大きなプロジェクトをもなそうと努めたそうだ。それは、いわゆる岩波訳と呼ばれる聖書の出版という、学術的にも信仰的にも大きな意味のある成果をもたらした。
 その岩波訳の聖書のパウロ書簡を担当したのが本書の著者である。
 岩波書店はその他でもキリスト教関係の研究書を多く出版したが、その後、編集者が独立した出版社を立ち上げることとなったため、岩波書店からキリスト教書の発刊が減ったように見える。気づけば、岩波新書からもその手のものが手薄になっていた。見れば、パウロを正面から扱ったものがない。これほどの新書がパウロを看板にしていないというのは、あまりにも不行き届きではないか、と思ったかどうか知らないが、この岩波訳のパウロ担当者に白羽の矢が当たった。どうも、このような経緯らしい。
 著者は、パウロ理解については、ある意味独特の考えをもっている。なかなか他の研究者とは相容れないような、しかしあくまでも聖書のギリシア語に徹底した観点から、パウロの本意を明確にしようという熱意により、ずっと一定の解釈を主張してきた。そのため、本書は、必ずしもパウロについての通り一遍の入門書となっている訳ではない。むしろ、パウロについての一研究者独自の視点が展開することとなる。
 しかし、前半は主にパウロの共通理解に努めており、誰が読んでもそのまま学ぶのに役立つ。情熱を抑えた叙述になっており、パウロについての現在進んだ研究の成果がよくまとめられている。
 しかも、新書という性格上、著者は大変苦労している。もとより、学術論文であってよいわけがない。それは、もはや「注」すらも置かないという方針に立っている。それどころか、中高生が読んでもそのまま意味を理解することができる、そんな本にしてほしい、というのが新書発行の方針であるということなのであったという。尤も、今日の中学生は昔の中学生とは違うから、読解力については甚だ不安であるため、私は高校生で手一杯であろうとは思うのだが、ともかく、一読して読み取ることができるというのは、たやすいことではないだろう。それは、恰も礼拝説教を聞くようなものである。礼拝説教なら、逐一注釈があるわけではないし、時間的順序で一方向的に流れていくだけである。立ち止まって考えることもできない。また、若者でも、とりたてて奥深い知識をもたない人でも、そこにいる人に届けなければならないいのちの言葉である。新書でパウロを伝えるというのは、そのような情況で語っていくということにほかならないのであった。
 後半では、著者の考えが示される。聖書の中の根拠を挙げ、パウロの真実に迫ろうとする。読者にそれを誤解なく知らせようとする。それにしても、これだけの紙数であるから、論文のような例示や議論をもちこむわけにはゆかない。説明や根拠づけも、どこか端折ることになってしまう。そのため、読者はもしかすると「どうして?」と疑問に思うことがあるかもしれないが、そこはもう仕方がない。巻末に、詳しく知りたい方にはこれを、と薦められているのでそちらに進めばよいことだろう。
 それでも、終わりにほうに行くと、盛り上がる。そして私は、ああ、こんなことを考えながら綴ってきたのか、いつもこのような目で見ているのか、などという想像を覚える場面に出くわして、思わずにやりとしてしまった。それが何であるかをここで明らかにすることはしないが、読者自らが、それぞれに楽しまれたらよいかと思う。
 ルターにもある「十字架の神学」と、著者の主張には重なるところが多々あるようだ。本書の出版は2016年12月であるが、年末でもあり、事実上読者は2017年に読むことになる人が多かったであろう。ルターによる宗教改革から500年、否が応でもルターに注目が集まる年となっていたが、改めて、十字架とは何であったのか、とくに一人ひとり私たち自身と十字架との関係を問うことが望ましい。私にとり、イエスを見上げればいつも十字架が見える。パウロもまた、そのような眼差しを以て、生涯を駆け抜けていたのであろことを思う。岩波新書のパウロものとして、歴史に残る本となるであろうが、世の中に、パウロを通じて、パウロと同じように、キリストと出会う人が増えていくことを願うばかりである。




Takapan
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