本

『パウロの生涯と神学 [増補改訂版]』

ホンとの本

『パウロの生涯と神学 [増補改訂版]』
朴憲郁
教文館
\2500+
2021.4.

 2003年発行の書に、文献等の注釈を加えたものだという。なかなか読み応えがあった。主役はパウロ。パウロについては、専門家も多々あり、また、キリスト教信仰の拡大のための随一の人物として、歴史的にも重大だとして扱われているわけだが、その生涯についても謎は多く、さらにその思想となると、神学的な理解も様々である。だが、やはりキリスト教のメジャーな面の一つであることは、確かである。
 そのパウロに迫るために、まずその生涯をたどる。人生のポイントについては、悉くあたるという姿勢を貫くため、本書は、特別な主張を証明するためのものというより、パウロについての百科事典のような様相を帯びてさえくる。こうして全体の半分の量が、生涯の解説にあてがわれる。解説とは言いながらも、多くの先人の研究結果を踏まえて、確実な点や解釈による点などを、的確に描き分けつつ、文献の意味などについても随所で触れながら、深い意義ある説明がなされていく。ふと何かの点に気づいて調べようとしたときにも、これはかなり役立つであろう。
 残りの半分は、パウロの神学思想について語る。非常にがっちりとした構成に基づき、まさに何かについて知りたいと思ったときに、頼りになるであろうと思われる。その意味でも、やはり本書は、ひととおり目を通した後に、またあちこち開いて確認したい、そんな価値をもつものである。決してどこかに偏って雄弁に語るのでもないし、パウロの言及した凡ゆる事柄について、触れていくというものである。そのため、最後は倫理観についても一つひとつ明らかにしていくのだが、それも、現在の私たちの立場や視野から、安易にああだこうだと論評するようなことを望まず、たとえば女性については、しばしば指摘されるような、見下したような扱いをしたというりも、むしろ、女性たちが使徒グループに属して重要な働きをしてきたことについて、パウロが各方面で触れていることを示している。
 このように、独善的に自己主張をしようとするのではなく、しかし熱意を伴って、パウロについて必要なスケッチを皆見せてくれるような作品であるとは思うが、「結び」に、要約的なものを載せているので、それをご紹介することは差し支えないと判断して触れることにする。
 「イエスがメシア的な人の子および和解者として理解され得、さらに、地上におけるイエスの人格と教えがパウロ以前の原始キリスト教的諸伝承の基底を形作り、しかも今一度それらの伝承が(キリスト信仰による神なき者の義認という)パウロ神学の基礎であるとすれば、そこに一つの繋がりが見えてくる。即ち、パウロはイエスの活動を独特な仕方で神学的に一貫させつつ、それを彼の伝道神学の基礎に据えた使徒である、と理解することが許される。」
 「キリストはパウロのキリスト論において、全コスモスの(古い存在と)新しい存在の拠り所である唯一の神の子、主として現れる。」「福音の語りかけに応える信仰によって、救いへの参与は個々の罪人に開かれている。」「使徒の教えによるピスティスは、神の前でもたらされる生命を総括する概念である。」
 このような理解から、「人はパウロ神学を聖書正典の中で孤立させたり、固定化・絶対化したりする試みを避けなければならない。パウロが聖書的伝承全体の中で聞かれ受けとめられる時に初めて、彼の教説の啓示史的、および神学的な地位は正しく評価され得るに違いない。」というのが、著者のパウロ観と本書のスタンスだとしてよいであろう。
 そして、私たちの立っている風景にあることは、次のような地平であるのだとして、すべてを結ぶ。「パウロ研究からは、イエス伝承とキリスト告白伝承が概して一世紀の初期キリスト教会の中で、すでに洗礼学習を中心とする教育的場面において自覚的に受容され、発展的に継承されたことを特徴づけている。」私たちは、こうしたパウロの道の先に、確かにいるのだ、というのである。
 文献出典を加えた、と最初に触れたが、実のところ、よく類書にあるように、膨大な文献の居並ぶ風景ではない。むしろ、本書は本文中に、聖書からの出典が無数にちりばめられている。聖書を基に、つないでいく。聖書から聖書を解釈し、パウロを理解する。私たちは、この原点を、案外近年忘れてきたのかもしれない。自己本位に歪ませてパウロを読むのではなく、いまの私自身の信仰につながるものとして、聖書による道を見出すことを、改めて教えてもらえたような気がするのである。




Takapan
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